2つの第39条

刑法第39条は、次のようになっています。

(心神喪失及び心神耗弱)
第三十九条 心神喪失者の行為は、罰しない。
2 心神耗弱者の行為は、その刑を減軽する。

 人は、よっぽど精神状態がおかしくない限り殺人なんてしません。だから、戦争等特別な場合を除き、多くの殺人者は、精神的な著しい異常状態にあり、治療を要する状態であるといえます。現在の標準的な精神科的な治療水準では、きちんと治療を受ければ、そして継続すれば不幸な事態を避けることもできたかもしれません。

 京アニの彼も治療を受けていたはずです。受け続けていれば・・・・。一見計画的にみえても内面は狂気そのものであったと考えます。まだ、妄想が続いているようですが。彼は、やけどの治療を受けていたのですが、こんなに良くしてもらったのは初めてです、と語ったといいます。もっと、良くしてもらう体験をするべきでした。

 現代の治療は、精神科でもインフォームドコンセントが重要であるとされ、強制的な入院はできにくくなっています。何か事件を起こしそうだと思ってもです。精神保健福祉法でも任意入院が優先されます。家族が、はらはらしながら見守るしかない場合があります。

 1964年に米国大使のライシャワー氏を刺した青年も静岡の母親は、病的になっていた子供が当日見当たらなくなっていたのでかなり心配していたようです。警備のある中実行できたのですから計画性はあったといわれてしまいますが、一方、幻覚妄想が活発な状態であったことは確かです。これらから考えると、計画性があったとしても、39条が適用になる場合があるといえます。

 これは、危険だなと思っても事件を起こすまでは対処することはできにくくなっています。また、仮に自分が主治医となっている患者が何か問題を起こしても別に罰せられることはありません。どちらかと言えば、強制的に治療をすればその方が問題とされます。もちろん、そういう状況がいいとはいえません。

 精神疾患に罹患した患者が殺人などの重大事件を起こした場合、医療観察法の入院ということになりますが、そこでもまだ、制度上の問題があります。事件を起こした後、医療観察法の入院期間が平均3年ほど。そこではおそらく世界で一番くらい充実した環境で十分なスタッフによって治療がされます。多額の税金も投入されています。

 そして、退院して私どものような民間精神科病院の外来に通院することもあります。それでも3年間、外来治療とはいえ、保護観察所の職員が中心となり、多くの人が関わり通院治療が継続されます。

 ただ、3年を経ると、保護観察所は手を引きチームは解散され、主治医が中心となり、ごく普通の外来治療となります。何年か前に殺人を犯した人でも、他の患者と同じように、一日数十人くる外来患者の一人となり、5分から10分の間の診察となります。

 行政職員には、仕事に終りがあります。また、異動があります。その期間だけで終わりです。ところが主治医となった医師は生涯終わりがなく、責任の尽きることがありません

 治療が中断してしまうと同じことを繰り返す可能性が高まるので、治療を継続させようと主治医は必死です。もし、本人が治療を拒否して通院しなくなっても行政はそのことを知りません。もう、処遇は終了しているからです。人権上のこともあり、誰もどうすることもできません。保護観察所もその人がどこで何をやっているかもわからなくなります。5年後、10年後どうなったのかという統計もとられません。医療観察法の治療の長期的な予後は検討されません。

 問題は、今の医療では適切な薬物治療を継続していれば、かなりいい状態が保たれるのですが、やめてしまうといずれ、元と同じ症状を生じてしまいます。精神疾患では同じ問題が繰り返される可能性が高いです。

 ですから、制度から取り残された患者さんと主治医は、運命共同体できわどい治療を継続します。ひどい重荷に感じることがあります。

 いつまで継続するか、医者が仕事をやめるか、どちらかが死ぬまでです。医者以外の保護観察所の職員や他の公務員には上述したように処遇終了という卒業があります。仕事をやり遂げることができる。その他のかかわりのある役所の方々も数年たてば異動です。守られています。それに対して主治医は終わりのない仕事に取り組んでいます。

 精神科医は、いつ自殺するかわからない患者と殺人を犯してしまう患者を多く一人で抱えています。責任はないといわれても、かかわりの中心の職種なので道義的責任は感じます。昔バスジャック事件で、現場に行ったか、行かされた主治医もいました。

精神保健福祉法第39条は、次のようになっています

 (無断退去者に対する措置)
第三十九条 精神科病院の管理者は、入院中の者で自身を傷つけ又は他人に害を及ぼすおそれのあるものが無断で退去しその行方が不明になつたときは、所轄の警察署長に次の事項を通知してその探索を求めなければならない。
一 退去者の住所、氏名、性別及び生年月日
二 退去の年月日及び時刻
三 症状の概要
四 退去者を発見するために参考となるべき人相、服装その他の事項
五 入院年月日

六 退去者の家族等又はこれに準ずる者の住所、氏名その他厚生労働省令で定める事項
2 警察官は、前項の探索を求められた者を発見したときは、直ちに、その旨を当該精神科病院の管理者に通知しなければならない。この場合において、警察官は、当該精神科病院の管理者がその者を引き取るまでの間、二十四時間を限り、その者を、警察署、病院、救護施設等の精神障害者を保護するのに適当な場所に、保護することができる。

 これは、簡単に言うと、自傷他害があって精神科病院に措置入院になっている人が無断で離院した場合に、警察にすぐに通報せよということです。

 精神保健指定医の更新には、研修会を受ける必要があり、以前受けた講習会で、講師の弁護士さんが挙げた例でこういうことがありました。措置入院者が精神科病院から無断離院し、その人が殺人を起こしてしまいました。おそらく、無断離院して間もなくなのでしょう。病院側はもちろん警察に届け出たようですが、病院は訴えられ敗訴しました。その理由は、病院側は警察に届け出ましたが、その時、精神保健福祉法第39条によって届出ますと言わなかった、だから落ち度とされ敗れたのですと講師は言うのです。

 裁定はまったく納得できないことですが、そうなっては困るので、「第39条によって届出ます」と言わないといけないのだと強く記憶しました。しかし、実際110番して、「精神保健福祉法の第39条によって届出ます」と言ってもすぐには通じないでしょう。極めて頻度が少ないことですから。警察官の場合、刑法第39条ならすぐに頭に浮かぶでしょうけれど。

法律で患者を救えるか

 問題を起こしそうな患者をどう救うか、また、その被害者が被害者にならないためにどうするか、それができるのは精神科医だけです。精神科医はそれに義務があるわけではあるません。やばいなと思ったら避けることもできますし、そうしても責任を問われることもありません。実際、措置入院を診ない、医療観察法患者を診ない、ついでに医療保護入院患者も診ない、入院したことのある患者は診ない、たくさん薬を使っている患者は診ないという精神科医はたくさんいますし、それでも別にやっていけます。

 わざわざ、そのような責任を負っている精神科医は、そういう精神科病院に勤めている精神科医です。才覚のある精神科医は開業、優秀な知能の精神科医は大学教授、高潔な精神科医は行政機関へ、何もリスクを背負う必要はありません。病院勤務の精神科医が最下層だと感じます。

 不幸な問題を回避するのは、何にも助けのない中での病院精神科医やスタッフの善意だけでしょう。それと、それを実現する実力を養い続けること。それしか、ありません。しかも、それらは目に見えません。

 自分が死ぬか、患者が死ぬまで、何とか治療を継続してもらう、その困難なことを継続する、それしかありません。そうしていても周囲から理解はされず、特に入院治療は問題視されることがあります。何もよく知らない人に。

 そして、精神疾患にり患した方が不幸にして自殺したり、自傷行為をしたり、暴れたり、他害、殺人に至ってしまうとしたら、きわめて不幸なことです。世間では、これらの行為を行うのは悪とされます。しかし、私から見れば、そんなことにいたるのは余程のことです。個人の悪という枠に収まるものではありません。

 そして、その不幸を回避させることが一番できるのは、精神科病院であり、病院勤務医、スタッフであるといえましょう。そのような自負、矜持を勝手に持ちつつやっていくしかありません。

 また、このような仕業は目に見えないものであり、逆に精神科病院は、ちゃんと見張ってないと何か悪いことをやらかすに違いないと思われています。このような苦境の中で、精神科病院で働いてくれる人に感謝したいと思います。(2025年3月)