道元の教え 支援者の心がけ

 菩提薩埵四摂法(ぼだいさったししょうぼう)

 菩提薩埵というのは、インドのサンスクリット語の bodhisattvaの音訳です。中国でそれに 菩提薩埵という語をあてたようです。略して菩薩ということです。菩薩という言葉の菩とか薩に意味があるわけではないのです。これらの字は、梵語の音訳に用いられることだけのようです。

 菩薩というのは、例えば観音菩薩、文殊菩薩のように用いられますが、仏道の修行者です。修行がうまくいけば、如来になるわけです。如来は、Tathāgataの訳》真理に到達した人。仏陀をいいます。ちなみに 文殊はMañjuśrīの音写だそうで、文殊菩薩という漢字に意味がありそうですが、というか、意味を付与していますが、Mañjuśrī bodhisattva の音だけを訳したものだそうです。

 四摂法は、菩薩が修行すべき4つの徳目であり、これは意訳です。

道元は、布施(ふせ)、愛語(あいご)、利行(りぎょう)、同時(どうじ)の4つを挙げています。

 菩薩でなくても一般人、特に支援を仕事にする人にはためになることなので説明していきます。

白河

布施

 「布施というのは、不貪(ふとん)、すなわちむさぼらないことである。むさぼらないというのは、諂(へつら)いの心なきことである」。

 最初から道元得意の飛躍があります。むさぼると、自分で独り占めすることであり、布施ができないこととなります。布施をするためには、利益をむさぼらないことが必要なことはわかります。

 しかし、諂いはだいぶ飛躍していませんか? 道元らしさが出ています。

 へつらうのは、物をもらおうと、あるいは関心をもらおうとして、へつらうわけです。へつらうと布施できないのでしょうか?

 何かをもらおうと下心があるということです。布施は出す方だから、もらうという下心のある諂いの逆だというのでしょうか? 何かをもらうためにとか、わずかにでも貰うことを期待するということがあってはならないということでしょうか。

 二宮金次郎は面白いことを言っています。動物、獣は、手が内側に向いている、何かを自分の方に取り寄せるだけだといいます。熊でも何でもそうでしょう。ところが人間は、反対にも向いて、人に何かを差し上げることもできるといいます。金次郎は人間だけの徳として「推譲」を挙げています。

 「たとえ全世界を領していても人々を教化して正しい道に帰せしめようとするならば、どうしても不貧でなくてはならないといいます。それは、捨つべき宝を見も知らぬ人に施すがごとくでなくてはならない」と道元は言います。

 捨てるべき宝とは、どういう意味か、さっぱりわかりません。ただの宝ではいけないのか? 自分で持っていてはいけない宝、独占してはいけない宝という意味だろうか? そもそも宝というのは捨てるべきものだということだろうか? 宝だと認識したとたんに、捨てるべきものなのだろうか。執着してはならないということだろうか?

 布施には見返りがあってはならない。もっと正確に言うと、見返りの期待があってはならないでしょう。支援する人の心がけとして、その与える行為が布施だとしますと、見返りがあってはならない。自分の利益から超越していなくてはなりません。そして、布施は相手が自分の好きか嫌いかによりません。正しい人か正しくない人によりません。本来、そういった純粋なものでしょう。そう簡単にできるものでないでしょうが、極めて尊い行為のように思えます。

 お布施をすることによって、良いことを期待してはならないし、時には悪いこと(表面的には)が返ってくることがあるあもしれません。でも、そんなの関係ないでしょう。

 

 介護にしろ、福祉にしろ、医療にしても、布施ということの大切さを学ばないといけないでしょう。見返りのない純粋な行為でしょう。報われないとかは関係ないし、好きな人より嫌いな人、無関係な人、通りすがりの人に喜んでお布施できることがいいでしょう。

南魚沼

道元と方谷

 偉人と偉人のつながりを調べています。

 道元(1200-1253)は、比叡山で学び、中国(宋から永平寺に移りました。一方、山田方谷(1805-1877)は、道元より600年も後に岡山県の松山に生まれ、京都や江戸出ることもあったが、ほとんどを松山で過ごしました。

 この道元の論考は、正法眼蔵と正法眼蔵随聞記を題材としています。随聞記は、ちくま学芸文庫の水野弥穂子訳を参照させていただいています。いくつかある随聞記の系統のうち、水野によれば、これは愛知県の長円寺にあった写本を昭和17年に大久保道舟博士が発見したものらしいです。誰が歴代写してきたかもわかっているそうです。

 さて、この長円寺は、京都所司代の板倉勝重(1545-1624)が愛知県西尾市に開いた寺です。その長円寺に墓所があり、勝重の肖像画もあります。

 板倉家は、子息、養子によって受け継がれていきます。墓はほとんど長円寺です。その系譜ですが、

勝重①→重宗②(下総関宿藩主)→重郷③(下総、墓は長円寺)→重常④(下総、長円寺)→重冬⑤(伊勢亀山藩主、長円寺)→重治⑥(亀山、長円寺)→勝澄⑦(初代備中松山藩主、長円寺)→勝武⑧(松山)→勝従⑨(かつより)(松山)→勝政➉→勝晙⑪(かつあき)(松山)→勝職⑫(かつつね)(松山、長円寺)→勝静⑬(かつきよ)(松山、幕府老中、墓は文京区本駒込吉祥寺)

勝重の時に江戸幕府が始まり、勝静の時に江戸幕府が終わっています。

幕府の筆頭老中となった板倉勝静⑬の教育係だったのが、陽明学者の山田方谷でした。

 長い道のりですが、ここで、道元と方谷はつながっています。

                 以下もご覧いただけたら幸いです。

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