偉人のうつ病について

 偉人のうつ病 について の話をさせていただきます。先のブログで紹介しました「優しくありなさい、あなたの出会う人々は皆困難な闘いに挑んでいるのだから」が、本当にプラトンの言葉かを調べるために,名言集を見ていた時,プラトンの弟子であるアリストテレスは,次のように言っていることを知りました。紀元前にすでに認識していたことに驚きます。

アリストテレスは,「問題集」第30巻1(955a39)戸塚七郎訳でこういっているそうです。(岩波文庫の名言集より)

「憂鬱症の人々はすべて,たしかに人並みでない所をもっている」これは,一つの論究の終わりの言葉らしいのですが,この章の最初には「哲学であれ,政治であれ,詩であれ,或いはまた技術であれ,とにかくこれらの領域において並外れたところを示した人間はすべて,明らかに憂鬱症であり,しかもそのうちの或る者に至っては,黒い胆汁が原因の病気(メランコリア→憂鬱症)にとりつかれるほどのひどさであるが,これは何故であろうか」と言っています。

 確かに精神疾患と天才とかの関係は,いろいろと病跡学というもので考察されてきました。また,精神疾患の患者さんの親族には,天才と呼ばれるほどの才能のある人が多くおり,精神疾患の患者さんは婚姻率や子供を持つ率が少ないのに,その遺伝子が残るのは,同時に世の中を変える天才の遺伝子に近いからだなどという考察もありました。

 私は,精神疾患の中でも特に統合失調症と天才との関係が深く,天才その人やその周囲には統合失調症が多い気がしていました。その理由を考えてみたことがあります。決して科学的な考察とは言えないのですが。それは,こういうことです。確か「アイデアの作り方」という割と薄い書籍があったと思います。アイデアができるのは,2つの物事の関連を見出すとか,それを生かすとかということだという内容だったと思います。確かに発明というのは,「このやり方を違うものに使ってみた」などから生まれることも多いので少し納得していました。

 さて,統合失調症の症状の一つに連合弛緩という思考の障害の症状があります。これは,1910年代にブロイラーという精神科医が取り上げた統合失調症の4つの基本症状の一つです。物事と物事との連合が緩んでしまうことです。この場合に普通は結びつかないはずの2つの間に,関連を付けてしまう,そのような思考をする場合があります。着想のように結びつくことがあるでしょう。つまり,こういうことで,統合失調症と天才は,共通の思考上の特徴を持っているのではないかと思えます。何もこれは私のオリジナルな考えではないと思います。精神科医ならそのように考えている人は多いと思います。私の知っている患者さんの一人は,私の質問したことと微妙に異なる次元のことを関連付けてぼそっと言います。それは,天才の作る俳句のようでもあり,天才芸人のする切り返しのようにも思えます。ちなみに私の師の一人である精神科医の阿部完市(浦和神経サナトリウム開設者,現代俳句協会金賞受賞者)は同時に天才的な俳人でした。常識を超えた連合ができてしまうということかもしれません。

 そういうわけで,天才と統合失調症の遺伝子との関連を想定できるわけですが,有名な考察では,アメリカ精神医学会の会長だったアンドリアセン女史が,天才とうつ病の関係をより科学的に,つまり統計学的に考察した論文があったと思います。

 うつ病になる人は几帳面で完全主義であるという病前性格があると昔の精神科医は気が付いたのですが,これが仕事の質の高さと関係するかもしれないですし,そう状態あるいは軽いそう状態の時に,生産性を発揮する,そういうことから,うつ病と偉人と言われる人との間に共通項があるのかもしれません。

 確かに,アリストテレスの言う通り,あるいはアンドリアセン女史の論文通り,日本の偉人にも,うつ病ではなかったのではないかと思える人がいますので,順次紹介したいと思います。このブログを更新していきます。

 新渡戸稲造(1862文久2年~1933昭和8年)について,ご説明しましょう。盛岡藩士の家に生まれ,札幌農学校(現北大)を卒業。同級生に内村鑑三がいます。東大を経て,ジョンズ・ホプキンス大入学。クエーカー教徒となり,東京帝国大学教授,東京女子大学学長,国連事務次長などを歴任しました。英語で表した「武士道」は有名です。文春学芸ライブラリーの「世渡りの道」解説者の寺島実郎によれば,「新渡戸はアメリカ留学前も帰国後も幾度も神経症を患い,時には休職を余儀なくされている。余談だが,「武士道」は神経症を患った新渡戸が,カリフォルニアで療養中に書いた作品である」といいます。カルフォルニアは,ボストンやニューヨークなどの東海岸や日本の東北地方の日本海側などと比べて,天気が良い日が多く,鬱陶しい日が少ない気候です。多分うつ病の療養には適していると思われます。気候と精神的問題には関連があり,いつか詳しくご紹介したいと思います。

新渡戸稲造

 「天才は冬生まれる」という題の脳外科医が書いた新書がありました。今でも手に入ると思います。きちんとした統計を取ったわけではないようですが,いく人かの天才を挙げて,冬生まれが多いとしていました。着眼がいいと思います。さて,統合失調症は,大規模なデータだと冬生まれが多いことが何度も確認されています。数千以上のサンプルを取った場合にわずかに有意にみられる現象です。この点でも精神疾患と偉人とか天才は関係しているということになります。さて,この作者は脳外科医だったので,統合失調症に冬生まれが多いということをご存じないようでした。この事実を組み合わせればもっと面白い本になったかもしれません。さて,統合失調症の発症率は緯度とも関係あるようです。そして,天才の生まれるのも高緯度に近いところが多いのではないでしょうか。どうですか、調べてみると面白いと思います。そういえば、ノーベル賞のスウェーデンの緯度も高いですね。象徴的です。なぜ、気候と統合失調症が関係するのか、無脳症という生まれてほとんど死んでしまう病気、神経系のこの奇形も冬に多いそうです。寒さが神経系に異常を起こす何かがあるのでしょうか。そして、その傷害が天才を生み出すこともあるのでしょうか。インフルエンザ説もありました。


 だいぶ横道にそれてしまいましたが,新渡戸は神経症とされていますが,現在でいえば,うつ病でしょう。その当時は,わが国では,精神科医森田正馬の「神経質」に対する森田療法があり,また,一方で,下田幸造の躁うつ病の「執着気質」も国際的に有名になりました。森田自身が神経質で苦悶したということは有名です。新渡戸がどのような治療を行ったのかはわかりませんが,うつ病を抱えながら,大変な仕事をしてこられたのだなあと思います。今でいえば,反復性うつ病性障害で,当然,抗うつ薬の適応になるでしょう。ちなみに同級生だった内村鑑三もクリスチャンで,やはり英語で書いた「代表的日本人」が有名ですね。内村の書いたものは新渡戸よりも何というか余裕がなく深刻な要素があり,精神的にはやはり微妙だったのかもしれません。内村鑑三の息子は内村祐之といい,東大精神科の教授になりました。その弟子にあたる秋元波留夫の元で学んだ阿部完市が当院の創設者で,開院の日の昭和38年6月4日には,当院に秋元教授もいらっしゃり祝杯をあげています。何か不思議な縁があるような気がしてなりません。彼らが書いたものは,彼らの精神状態が平常ならば生まれなかったような気がします。ついでに言わせていただくと,「代表的日本人」には,5人の偉人が載っていますが,その中で二宮金次郎はうつ病になりましたし,西郷隆盛は錦江湾で投身自殺を図っています。他の3人はどうだかよくわかりません。さて,さらに,横道にそれますが,精神疾患と関連が深いのが,天才や偉人ですが,同じように精神疾患と関連が深いのが精神科医でしょう。わざわざ精神科医になるのですから,私を含めてちょっとおかしい人が多くてもしかたないでしょう。いや,まともな精神科医は多くいます。ご心配なく。

内村鑑三


さらに、付け加えなければならないのは、秋元波留夫教授の次の東大の精神神経科の教授が臺弘(うてなひろし)であり、臺はなぜか二宮金次郎に注目しましたが、彼は、自分の行った統合失調症の生活療法と金次郎の方法につながりを感じたように書いてあります。彼は、金次郎が一時失踪したのは、金次郎の仕法を有効に進める意図でわざとやった作戦だったというように解釈しています。ここが、私の考えとは違うところです。この辺は、ブログの金次郎の項をお読みいただければと思います。何かどこか、うつ病になるのは弱い人だという若干否定的な考えが一般的にあったかもしれません。昔は、「だらしない」などと言われたのではないでしょうか。だから金次郎のような偉人がうつ病になったなどということは、伝記である報徳記を書いた冨田には認められなかったでしょうし、ひょっとすると、臺自身が認めたくなかったのかもしれません。臺のような優秀な精神科医でも診断の中に自分の情動的なものとか、通念のようなものが入り込んでしまったのかもしれないと思ってしまいます。つまり、うつ病というのは気力のない人に起こるのだとか、弱い人がなるのだとかいう考えのことで、偉人とは相いれないという考えです。いや、多分私の方が間違っているんでしょう。臺先生は、血圧と脈拍と何だったかと3つの変動で統合失調症を評価するという方法を示していて、すごい精神科医であることは疑いがありませんから。

 ともかくそういうことで、私がしようと思っているのは、偉人のうつ病を提示していかねばならないことですので、先に進めることにしましょう。この調査が難しいのは、上述したようにうつ病が例えばハンセン病と同じように、隠さねばならない、隠したい病気で、名誉を貶めるものだという通念があったために、伝記などには表れにくいものだからです。伝記の作者はその当人を崇拝しているのが普通ですから。それでもわずかに書かれているものを探しましょう。

 石田梅岩(1685年 - 1744年)は江戸時代の思想家、倫理学者。石門心学の開祖。 以下、ウィキペディアや石田の著書から生活史をまとめました。
 梅岩は、丹波国(現:京都府亀岡市)に、農家の次男として生まれました。1695年、11歳で呉服屋に丁稚奉公に出ましたが、その呉服屋の経営が悪化、一旦故郷へ帰りましたが、なんと11歳時に着ていた服のまま帰ってきたといいます。待遇が悪かったらしいですが、文句も言わずに受け入れてきたようです。1707年、23歳の時に再び奉公に出て違う呉服屋で働き成果を上げていきました。同時に自分で儒教などを勉強していましたが、1727年に出逢った在家の仏教者小栗了雲に師事して刺激を受け、23年勤めた呉服屋を辞めて思想家への道を歩み始めました。45歳の時、紹介不要、性別も問わない無料の講座を自宅で開き、後に「石門心学」と呼ばれる思想を説きました。「学問とは心を尽くし性を知る」として心が自然と一体になり秩序をかたちづくる性理の学としています。梅岩自身は自らを儒者と称していました。その学問を「性学」と表現することもありましたが、手島堵庵などの門弟たちによって「心学」の語が普及しました。60歳で死去。主な著書に『都鄙問答』(とひもんどう)『倹約斉家論』がある。現在、京都府亀岡市の道の駅ガレリアかめおか内に石田梅岩記念施設「梅岩塾」が併設されているとのことです。

 石田は長年の商家勤めから商業の本質を熟知しており、「商業の本質は交換の仲介業であり、その重要性は他の職分に何ら劣るものではない」という立場を打ち立てて、商人の支持を集めました。「論語とそろばん」の渋沢栄一のようですね。最盛期には、門人400名にのぼり、京都呉服商人の手島堵庵ほか優れた人材を輩出しました。

 主著である都鄙問答は、質問者に対して梅岩が答えるという形式で、中江藤樹の「翁問答」(おきなもんどう)と同じ形式です。中江は近江聖人とも呼ばれ、 内村鑑三の代表的日本人の5人のうちの一人です。 生没年が1608年 - 1648年ですので梅岩に先立って、問答集を書いているわけです。私の推測ですが、ベースが2人とも儒教ですし、梅岩が藤樹の影響を受けたことはありうると思います。これらは岩波文庫にもありますが、致知出版社版に読みやすいものがあります。

 さて、この梅岩ですが、森田健司の「石田梅岩 峻厳なる町人道徳家の孤影」かもがわ出版2015 によると、梅岩自身、少年期の自分は理屈者で、気難しく、神経質だったこと、思いやりに欠け、同時代の友達にも嫌われることが多かったという記載があります。

 上記の本を引用します。「そして、20歳頃、胃病になった。彼は、それを1日2食にすることで克服した。身体の健康は回復した梅岩は生真面目な性格から、大いに働き、主人からの信頼も厚くなり、めでたく手代に昇進したが、今度は無理がたたって、精神面に不調が出始めた。気の沈む日が続いた。このころ、日々全力で働き、しかも全力で勉強していたらしい。睡眠時間も少なかった。鬱々とした梅岩を見て、番頭や主人の母親は、気晴らしを勧めたらしい。大人なのだから遊びの一つも覚えて、上手にストレスを発散せよということである。このままでは、自分だけでなく、家全体に迷惑がかかる、そう理解した梅岩は、勧められた通り、遊興に耽った。彼も一人の若者である。気が付いた時には、奉公人というよりも宿を借りた遊び人のようになっていた。本末転倒も甚だしい。しかし、精神的には、幸いにも完全に復調していた。肉体と精神の健康こそ、すべての前提だ。梅岩は身を以て、それに気づかされた」

 このように、梅岩は、生真面目で神経質な性格を持ち、奉公してからは全力を出し消耗し、うつ病に陥ったと考えられます。幸いに周囲の理解とアドバイスがあり、回復できましたがそれ相当の期間を必要としただろうし、場合によっては遷延した可能性もあると考えられます。梅岩のこのうつ病を表現した書籍の原典にも当たってみたいと思います。森田はこの部分がどの書籍からの引用か明かにしていません。


 これまで挙げた二宮金次郎、新渡戸稲造、石田梅岩とも、おそらくうつ病でまちがいないだろうと思われますが、その共通点は、目標を目指した熱心な現実的働きと、道、あるいは徳というものを極めていく、というところで一致しています。そして、うつ病を契機に彼らは自己改革が行なわれており、大きな成果を出したのはその後であることも共通しています。