うつ病になった二宮金次郎 その3

うつ病からの回復と開眼

金次郎失踪
金次郎失踪

 文政12年1月の失踪後の金次郎の行動は,川崎大師を参詣したこと以外は不明とされています。3月中旬に金次郎は千葉県成田の旅館小川屋に着きましたが,旅館の主人は金次郎の容貌が普通の人とは異なり,衣服が質素なのに70両の大金を持っていることを訝り,「願わくば他へ宿し玉へ」と厄介払いしようとしました。それに対して金次郎は,「止宿を断らば,前に断るべし。一旦諾して又此言を発するは何ぞや」と言い,「その声鐘の如く眼光人を射る。旅亭大に恐れ之を謝す」とあります。また,真言密教の高僧とされる成田山新勝寺の照胤和尚は,金次郎を見て「当山に祈願するものは自ら病のためにし,あるいは栄利のためにし・・・,しかし,貴下の状貌を見るに強壮健全,疾病あるの人に非ず・・・」と言っています。

成田山
成田山新勝寺

 この2つのエピソードからは,金次郎に憂鬱な気分や自信喪失の様子はうかがえません。辞職願を出した時の弱々しさとは大違いです。困難を極めた現場から離れ,失踪してから約2か月の間,金次郎は,睡眠,食生活の改善を含んだ療養ができた可能性があります。今なら,精神科への入院,安静,薬物療法といったところでしょうか。ともかく,3月中旬の成田山到着時には,金次郎のうつ状態はある程度軽快していたと私は考えます。

 照胤和尚の問いかけに対し,金次郎は桜町の状況や成田山で修行を行う理由を話したとされます。照胤和尚は金次郎の思いを受容・傾聴し,復興事業への熱意を評価する一方,「必ず我が法に帰せしめんとすれば害ありて益なし。唯其来るのを待たんのみ」と言っています。金次郎の取り組みの姿勢に,自らの考えへの固執や性急さがあり,それがむしろ障壁になっていることを和尚は見抜いたのでしょう。このような和尚の対応は,支持的であるとともに,金次郎の気付かない囚われを明確化するという精神療法的意味を有していたと思われます。

 参籠前には,仕法への努力が正当に理解されてないと金次郎は受け取り,己を是,他を非とする論理に陥り,「半円の見(半円観)」の段階だったする研究者がいます。下程は,「己のあるところ,口腹の慾を生じ,それを充たすか否かにより,好悪・利害の対立が生じ,そのうち,我を利するものをあくまで求め,他を斥ける我執が出てくる。このように好ましいものに執着し,然らざるものを斥けてやまぬとき,われわれの眼は一方のみを見て,他の半面の持つ意味とか価値には盲目となる。これが半円の見である」としています。金次郎は自らの立場のみから正邪を分け,理想に固執して,思い通りにならない現実に苦しんでいたということでしょうか。こういう偏った見方は,誰にもあるものでしょうけれども,何らかの理由で脳の機能の低下が起こった時,全体が把握できず,脳に負担を掛けないような単純で二分的な考えが優勢になることがあると私は思います。健康な時の金次郎であればしないような考え方が,うつ病によって優勢になっていたというふうにも考えられます。

開眼の地
開眼の地 表示
金次郎開眼の地(成田山)

 特に金次郎の開眼について研究した加藤によれば,21日間の断食の修行により,心眼が開けて「半円の見」から「一円の見(一円観)」へと考え方の基盤が変わり,これが金次郎の開眼体験とされます。なぜ,「円」という言葉で説明するかというと,金次郎は後に「円」をモチーフとした哲学を考案していったからだと思います。成田山新勝寺のその開眼の場所には,今でも石碑が立っています。金次郎は自らの認識のありかたと事態の膠着との関係に気づき,本来は善も悪も一円であり,理想への固執から敵を排除するのでなく,改革への意志は保ちつつ固執を離れ,成田山の不動明王のごとく受けとめるという視点を獲得しました。偉人の悟りの過程,どんな人にどんな状況で悟り,覚醒というものが生れるのか,このことも私の非常に関心のあるところですので,後日報告できればと思います。

 金次郎が文政12年1月4日に出府して行方不明となったのち,村民14人が江戸に出向き領主宇津氏に桜町陣屋の指導者交代の要求をし,豊田正作は桜町から召還されたということです。うつ病から回復した金次郎が4月8日に桜町に帰任する際には多くの村民が迎えに出ました。金次郎は村民からの承認を実感したに違いありません。活力を取り戻した金次郎は帰任の翌日に廻村を再開し,豊田の施策を覆し,民主の向上,出精人の表彰,荒地開発,人口増加をめざした施策を精力的に展開しました。村民の仕法支持への流れは増強し,文政13年には農民は領主に425俵を献納し,天保2年10年目には目標の貢租2,000俵にほぼ達しました。

再出発
再出発

 その後,金次郎は600か所以上の仕法を行い,哲学思想上にも大きな進歩をみました。以後,うつ病の病相と想定される異変の記録はありません。なお,後に豊田は金次郎の熱心な信奉者となりました。自己への囚われを離れ外界の認識に曇りがなくなったためでしょうか,金次郎は天保の凶作を予知し,あらかじめ冷害に強い粟を植えるなどの対策を徹底させました。その結果,桜町は天保の飢饉を免れただけでなく,貯蓄米で周辺地域の飢餓を救済することもできました。報徳記によれば,金治郎は,夏に食べた茄子が秋茄子の味がしたことから,冷害・凶作を予知したといわれます。このような感覚の鋭敏さから金次郎の能力は神の如くと言われました。


 つづく・・・・

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