鴎外への鎮魂歌0 その概略 

はじめに

 凡人は毎日失敗する。今日も失敗した。しかし、人間のスケールが小さいから失敗にしてもスケールが小さい。偉人も失敗するが、今日紹介するのは、とてつもなく大きなスケールの失敗だ。

 森鴎外は、明治期に活躍した日本を代表する小説家だ。小説家として超一流なのに、東大出の医師であり、ドイツに留学もして陸軍軍医のトップにまで上り詰めた。

 何もかも優れた成果を出したが、一つ大きな失敗がある。鴎外やその仲間は脚気(かっけ)の原因を間違え、その間違った意見を軍医高官の立場から発し続けたために、日清、日露戦争で、おびただしい脚気による死亡者を出したことだ。戦局にもかなりの影響があったと思われる。

 彼は、超一流の成功と超一流の失敗の両方を携えてあの世へと旅立った。この事実については、多数の報告があるが、人間にとって大切なことは何かという視点で見直してみたい。

問題の概略

 わが国の脚気の歴史を松村と丸井の論文から概観する。日本書紀にすでに脚気と思われる病気の記載があるという。明治の3-4年から東京を中心に中流家庭に脚気が多発した。軍人にこの病気を患う者が多かったらしい。明治4年ロシアとの樺太問題のために出向した軍艦では、帰路に乗組員の過半数が脚気になり、函館に寄港して、病院を建てなければならないほどだった。

 脚気の原因は、現在ではビタミンB1の欠乏によるとわかっている。そのために、神経障害、運動障害、歩行障害などを起こし、心臓にも障害をもたらして死に至らしめる。海外では、ベリベリともいうが、べりは羊であり、羊のような歩き方になるというのだ。日清、日露戦争の陸軍兵士は、脚気のために、ふらつきながら戦ったらしい。外国人のジャーナリストは、怖くて酔っぱらっているのだろうと思ったらしい。

 そのようなこともあって、明治6年頃に陸軍の脚気病院、明治11年には府立の脚気病院、明治15年には東大の脚気教室ができた。

 日本医学誌雑誌2004年に荒井保男が発表している論文を見ると、米国の医師であるシモンズが安政6年(1859年)に来日。医師として働き始めた。

 シモンズは、脚気に関心を持ち、明治13年の英文雑誌に28ページに及ぶ論文を発表。脚気の成因を湿地から発生する毒生物と考えていたようである。また、栄養と食事の重要性を強調し、米飯の悪いこと、アズキなどの豆類や麦を米飯に混ぜて摂ることが重要だとした。

 このように、シモンズは明治13年の時点で米飯による栄養障害説を提出している。海軍では、明治17,18年ごろから、のちに紹介する海軍軍医トップの高木兼寛(かねひろ)の指示で米飯を麦飯に変更し、以後、脚気の罹患者、死亡者は激減した。

 ところが、陸軍では、海軍の成功を知っているのに、米飯(白飯)のままで変更せず、日清、日露戦争で、脚気による死者を合わせて3万人以上出した戦闘で死んだ兵より、脚気で死んだ兵の方が多かったのだ。

 この陸軍の愚策の主犯の一人が森鴎外(林太郎)である。陸軍の高い地位にあり、兵食研究を専門とした林太郎は、20年以上、自説を曲げず、結果として3万人の死者を出した。もし、海軍にならって、「麦飯にする」と命令すれば、おそらく、死者を100分の1にできただろう。今でいえば、業務上過失致死ということになるのだろうか? 

 そればかりでない。戦局もより良好となったろうし、日露戦争後、他国との交渉を有利に進められただろう。

 知的能力、学力もきわめて優れた鴎外が、なぜ、とんでもない大きな失敗をしてしまったのか? 3万人を殺してしまったという事実は鴎外にとって耐えがたいものだったろう。そこには、鴎外だけの問題ではない、すべての人間の中にある何かが働いている気がする。

北里柴三郎と緒方正規

 1885年(明治18年)1月、東京帝国大学医学部教授の緒方正規(1853-1919、衛生学、細菌学、1882-1884ドイツ留学経験あり、コッホの弟子に学んだ)は脚気病原菌説を発表した。脚気菌を発見したというのだ。

 この緒方の論に対して、ベルリン留学中の北里柴三郎(1853-1931)は反論し、論争が続いた。この当時、ドイツでは、コッホによる炭疽菌、結核菌、コレラ菌の発見があり、細菌が原因だという思い込みが緒方にあったのかもしれない。

 ここで問題なのは、緒方と北里は共に熊本大医学部の同期生であり、3年早く東京医学校に入った緒方が北里の内務省衛生局で上司となり、東大の教授でもあった。その緒方の計らいで明治18年にドイツのベルリン大学に留学した。

 だから、留学させてもらった上司に対して、柴三郎は論争をはじめたのだ。柴三郎は漢学者の伯父から幼いころに四書五経を学んでいる。恩の大切さを知っているが、それより、真実を優先させたのだ。科学者としては当然のことだが。

 ドイツでの柴三郎は、コッホ(ロベルト・コッホ、1843-1910、細菌学の第一人者)と親密になるとともに大きな業績を上げていく。1887年(明治20年)、石黒忠悳(ただのり)陸軍省医務局長はベルリンを訪問して、柴三郎に他の研究室に移るように指示した。抵抗する柴三郎に石黒は激怒する。柴三郎の才能を熟知していたコッホは石黒と面会し、柴三郎を異動させないようにした。柴三郎はその後、わずか数年間で驚異的な成果を挙げた。

 1889年(明治22年)、柴三郎は世界で初めて破傷風菌だけを取り出す「破傷風菌純粋培養法」に成功した。翌年の1890年(明治23年)には破傷風菌抗毒素を発見し、世界の医学界を驚嘆させた。さらに「血清療法」という、菌体を少量ずつ動物に注射しながら血清中に抗体を生み出す画期的な手法を開発した。

 1890年(明治23年)には血清療法をジフテリアに応用し、同僚であったベーリングと連名で「動物におけるジフテリア免疫と破傷風免疫の成立について」という論文を発表した。第1回ノーベル生理学・医学賞の候補に「北里柴三郎」の名前が挙がった。残念ながら、ベーリングだけが第1回ノーベル賞を1901年に受賞した。当時、共同受賞という制度がなかったようである。また、東洋人がノーベル生理学賞をとったのは、1987年の利根川進が初めてである。

 柴三郎は、東大の医科研、北里研究所病院を創設、慶応病院の初代医学部長、日本医師会の創設なども成し遂げた。この論題での登場人物の中で、医学的才能、論理的思考、科学者としてのセンスで他を凌駕していたのは柴三郎と思える。コッホもはっきりわかっていたと思われる。

石黒忠悳(ただのり)(1845-1941)

 石黒は、林太郎と共同して、陸軍での白飯を推奨し続けた。もう一人の首謀者であり、林太郎の上司だ。岩波文庫に石黒の「懐旧九十年」がある。90歳の時に書いた自伝である。明治、大正、昭和にわたる医師としてのできごと、人間関係、政治的な問題などを細かく記載していて興味深く、著名人との交流についても多く書かれ、部分的に読んでも面白い。

 しかし、この自伝には欠点がある。都合の悪いことは書いてない気がする。そこが、ガンジーの自伝との違いだ。ガンジーは、自分の恥となることや悪事、失敗、屈辱なども書いている。

 ともかく、この伝記だけ読むと、人情味があふれ、義理堅く、正義を貫く、人からの熱い信頼もあるとみえる。銅像も作られている。おそらく、市ヶ谷の防衛省に保管されているのでないか。ドイツとの関係が深いのかと思われたが、明治9年に万国博覧会視察の命を受けて米国に行ったのが渡航の最初である。そこでは、軍の医学に関することを調査している。

 明治20年、林太郎が2回目の脚気に関する論文を書いた年に、ドイツで行われた第4回赤十字会議に出席した。9月の事である。そこで、ある外国人委員が、赤十字条約中にある列国は相互に病傷者を救護するが、欧州以外の国にも適用すべきかと発言した。これに対して、石黒は憤り、ドイツ語が堪能な林太郎の通訳で、正論を述べて抗議し、認められないなら議席を退くと発言した。知人であったオランダのポンペ医師らが同調して、東洋の古い文化のある日本を認めるに至ったとなっている。しかし、これは、石黒の言葉を訳したのか、鴎外が自分の考えで主張したのかわからない。

 さて、明治21年6月3日に、石黒、林太郎ら、ドイツに留学していた19人の医師がベルリンの写真館で写真をとり、それが、文京区に保管されている。そして、林太郎とともに、7月5日にベルリンを断ち、帰国の途についた。

 この伝記の末尾に近く、脚気調査会のことが書かれている。明治天皇から、大久保利通に脚気の研究を進めるようにと仰せがあり、大久保は明治11年に東京府に命じて駒込に脚気病院を創った。石黒は、すでに「脚気論」を公にしていたので、その設立委員となったという。石黒は報告を担当する委員となり、毎年、内務卿を通じて天皇に伝えられたという。漢方治療より西洋医学のが治療成績良好だが、医学上の難問題で、軍隊においても支障をきたすことが少なくないと記載している。

 時代は飛び、明治41年、寺内陸軍大臣は、脚気調査会を設けようと内閣に進言した。徳大寺侍従長から、明治天皇が、脚気については石黒が多年苦心しているから、意見を内聴してみよとなったと石黒は記載している。石黒は明治天皇が自分の苦労を知っていてくださったことに恐懼にたえないとまで言っている。そして、もちろん、調査会設立には賛成で、自分の意見を文書にして提出している。その数日後に、この調査会は設けられた。

 さて、石黒の脚気問題に関する記載はそれだけであり、高木の研究などについてはまったく言及していない。この文書により、林太郎が不幸にもその委員長に推挙されてしまったのかもしれない。これは、石黒の陰謀だったのか? 

 

高木兼寛の実証研究

 海軍軍医の高木兼寛(かねひろ、1849-1920、慈恵医大創始者)は、ロンドンの医学校である現在のキングス・カレッジ・ロンドン(現在まで14人のノーベル賞受賞者を出している)を最優秀学生賞を受賞して卒業した。

 高木は、ロンドンから帰国し、海軍軍医だった時、同じ鑑でも脚気になるのは、下級の兵卒ばかりで、洋食を食べている上級士官で脚気になるものはないことに気が付いた。

 軍とは嫌なものだ。明治35年1月25日の八甲田山の訓練で、生き残ったのは、高品質な下着を着た上級兵が多かったということを聞いたことがある。偶然にも恐ろしく不幸なことにこの日は、日本の最低気温を記録した日でもある。旭川で氷点下40.8℃だ。何ということだ。

 高木は脚気が食事と関係すると仮定して、2隻の軍艦で比較対照試験をした。1つの軍艦では従来通り白米中心、もう1つの軍艦筑波では、食事は副食も含めて給食とし、良質のものを出すことにした。統計学的な手法である。イギリスの看護師でクリミア戦争に従軍して統計学的手法により野戦病院の死者を減らしたナイチンゲールの影響を受けたのかもしれない。

 これは、明治17年ころ、彼が35歳ころの実験である。その結果、軍艦筑波では15人しか脚気にならず、しかもその15人の多くが給食をきちんと食べていなかったという。彼の中で、脚気に対する食事の関与は明白になった。270-280日をかけたプロスペクティブな研究でN数も合わせて500人以上だ。大規模な立派な比較対照研究である。

 高木は明治18年に海軍医官で最高位の海軍軍医総監(少将相当)であったので、こういうこともできたらしい。海軍の食事は白米から、米と麦の併用になった。この結果、海軍での脚気は皆無になった。日清、日露戦争でも海軍では脚気はほとんど出なかったらしい。もし、高木がいなかったら、日本海軍は、バルチック艦隊に勝てなかったかもしれない。それだけ、高木の功績は大きい。

 高木兼寛は自分の臨床実験から、明治18年3月28日、「大日本私立衛生会雑誌」に脚気原因説(たんぱく質の不足説)と麦飯優秀説を発表した。そして、緒方らと対立することになった。まだ、ビタミンの概念がなかったこともあり、高木は蛋白質の不足と考えていた。

 高木は、その後、慈恵医大を創設した。慈恵出身の先生方は、高木の偉業を忘れないでほしい。

森鴎外(森林太郎)の登場

 ここで森鴎外(森林太郎、1862-1922 大正11年)が登場する。林太郎は明治14年に東大医学部を28人中8位の成績で卒業した。林太郎の東京帝大の同期生の小池正直(のちの陸軍省医務長)は、陸軍軍医本部次長の石黒忠悳に林太郎を採用するよう推薦状を出した。林太郎はは海外留学を希望していたが、成績2位まででないと官費留学させてもらえない。優秀であったが、文学になどに興味があり、明確な進路をとろうとせず周囲が見かねたらしい。石黒は、小池の意見を受け入れて、林太郎を採用する。

 この3人は、ずっと後まで、親密と離反との関係を揺れ動いた。

 その結果、林太郎は、明治14年12月16日に陸軍軍医(中尉相当)になり、東京陸軍病院に勤務した。そして、明治17年にはドイツに官費留学し、コッホ研究所で細菌学を学んでいる。緒方がドイツに滞在したのは明治14年から明治17年までであり、コッホの弟子に学んでいる。緒方と林太郎に接点があったかわからない。

米とはと麦

 山本俊一によると、明治18年に林太郎はライプチヒで、「日本兵食論」を発表した。「従来の日本食は適当でないとして海軍においては洋食を支給するようになった」と高木の研究を挙げている。「海軍においては決然と西洋食を給与するに至っている。この時にあたって陸兵にも西洋食を配給してはいかがとの問題を講究するのは無用の弁にあらざるべし」。

 そして、森はいくつかの理由をあげて、「陸軍では米食で十分な栄養法を行うことができ、不十分な点は改良すれば、陸兵に洋食は行い難いのみならず、行う必要がないことは明白である」と述べている。

 さらに、明治20年に森林太郎が発表した「日本に於ける脚気とコレラ」はドイツ医事週報に掲載された。その訳文が山本の文献にあるが、森林太郎は「シモンズは、なお依然として彼がかつて公表した見解を固持し脚気の発生は東アジア人の米食から説明されうると考えていることがみてとれる」。

 「このような不完全帰納推理に基づく曲論は、つとに反駁されているのであって、私がこれについて多く無用の言葉を費やす必要はあるまい。さまざまな実験はすべて失敗した。佐々木、原田両名による、シモンズによっても推奨されたアズキ豆による実験、さらには、日本軍隊においてかなり大がかりな規模で行われた大麦をもってする実験がそれである」。(佐々木東洋は明治11年にできた府立の脚気病院の医師、原田豊は明治15年にできた東大医学部の脚気教室の医師)

 シモンズの論文の抄録が明治20年(1887年)、ドイツの「細菌学・寄生虫学中央雑誌」に掲載された。これを、ドイツ留学中の森林太郎が読んだわけである。そして上記の反論を書いたのである。

 現代の知見からするとこうだ。
 グルコースは、体内でエネルギー物質であるATPになるときに、ビタミンB1が補酵素としてかかわり、消費される。糖質の摂取量が多いとよりビタミンB1は、不足してエネルギーの産生が低下する。つまり、そもそも、食生活によってビタミンB1不足になっている状況で、白米という糖質が体内に入り、さらにB1は大量に消費される。さらに軍隊だからエネルギーも多く消費する。このような条件では白米だけ食べていれば脚気が増えてしまう。

文科省の食品成分データベースより

 林太郎の表現は、理論的というより、感性的ないし感情的にみえる。科学論文より、文学に近い印象も受ける。理論より陸軍の事情を優先したように思う。ともかく森林太郎は、明治18年には、すでにはっきりと脚気は食べ物と関係ない、白飯でいいのだという考えだった。高木の実証的研究を無視した。

 明治20年(1887年)9月に、石黒は、ドイツのカルルスルーエで開催された第四回赤十字国際会議に政府委員として出席し、北里柴三郎、森林太郎と合流した。すでに森は陸軍に入っているので、その陸軍軍医のトップである石黒と久しぶりに会ったのである。石黒の通訳官となった。この面会と上記「日本に於ける脚気とコレラ」のどちらが先なのか、今現在の私にはわからない。

 しかし、おそらく、林太郎、石黒、そして北里は、脚気についても意見を交わしたのではないか? 高木のことも話題になっただろう。森、石黒は明治21年に一緒に帰国した。

 ただの推測にすぎないが、柴三郎だけは、林太郎や石黒の考え方を危惧していたはずだ。

 明治23年に陸軍軍医監になった石黒忠悳(1845-1941、日本赤十字社社長)は緒方による脚気病原菌説を支持した。細菌学全盛の時において理論法則の構築優先のドイツ医学を範とする東大・陸軍省医務局はイギリス医学の高木説など無視したようだ。

病原菌説食事・栄養説
森林太郎  ドイツ留学高木兼寛  イギリス留学
石黒忠悳  ドイツ訪問シモンズ 米国出身
緒方正規  ドイツ留学北里柴三郎 ドイツ留学
土岐頼徳 
対立の構図

日清、日露の悲劇

 台湾総督樺山資紀は、高木と同じ海軍に属する大将であり、同郷の薩摩出身者であり、麦飯を支給すべく軍中枢に働きかけたが、石黒は頑なに「台湾戍兵ノ衛生ニ就テ意見」にて「麦飯不可」を述べた。この様な状態の中で土岐は着任し、上官である石黒の指示を無視して全台湾軍に対して独断で麦飯給与を命じた。石黒は土岐の越権行為かつ命令違反に対して、「麦飯に代えることの禁止、麦飯の有効性は学問的に認められていないこと等(軍医学会雑誌 第72号 明治29年2月号)」を記した訓示を発令した。

 日清戦争時に上官で陸軍軍医総監の石黒忠悳に林太郎は同調した。明治14年からの付き合いである。どうしてこのような深い絆があるのかわからない。石黒は日清戦争当時に陸軍軍医の土岐頼徳からの麦飯支給の意見を握りつぶし、日清戦争後の台湾の平定(乙未戦争 明治28年)でも白米の支給を変えてはならないと通達した。

 石黒の訓示に対して、土岐は1896年(明治29年)3月26日付けで「麦飯を用いた結果の脚気減少の事実等」を論証し「小人が言葉巧みに石黒に麦飯禁止を勧めたせいではないのか」と真っ向から反論を行った。

 土岐が台湾で独断の麦飯支給で脚気の流行を鎮めると、軍規違反を問うて即刻帰京させた。しかし、石黒が隠そうとした「麦飯で脚気が減った」経緯を知る元台湾鎮台司令官の高島鞆之助は陸軍大臣になると石黒を辞任させた。

歴代の陸軍軍医総監

 林太郎が同調した石黒とはこのような人物であると渡部は評している。同じ陸軍の軍医が麦飯で脚気を減らしてもなお高木の栄養説の欠陥を批判するのみで、脚気患者を減らすことを目的とした対策は採らず、日清戦争では4,000人の兵士が脚気で死亡し、やがて日露戦争での膨大な戦病死を惹起した。

 ここで、土岐のいう小人とは、林太郎のことではなかったろうか?

 土岐による台湾軍への麦飯支給とそれに反対する陸軍医務局の動きは「時事新報」にて(1896年(明治29年)4月9日付け)「台湾嶋駐在軍隊の衛生」・(同4月12日付け)「台湾衛生に就て」で医務局への非難が掲載された。

 石黒は「時事新報」(明治29年4月18日付け)において「石黒軍医総監の兵食談」で自己弁論を行った。同兵食談では「森(森林太郎)軍医監が真正な方法で行った兵食試験の結果、米飯が最も養兵に適する。米飯は何の害があるのか、米飯に比べて消化に悪く腐りやすい麦飯は何の益があるのか、これを学問上実験上確定しなければ貴重な我が国軍隊の食料を変更できない」としている。

 しかし、この林太郎の行った実験は、高木の大規模な実験と比べると、N数も極端に少なく、観察期間も短いものである。「欠乏」の問題を明らかにするには、まったく不十分な実験である。実験内容と結論が結び付かない。

 石黒は、事態を収拾するために、土岐頼徳を同年5月10日に帰京させ、休職扱いとし、なんと土岐の台湾での存在自体を記録の上から抹消したという。

 日露戦争では、1904年(明治37年)4月8日、鶴田第1師団軍医部長、横井第3師団軍医部長が「麦飯給与の件を上官である森林太郎軍医部長に勧めたるも返事なし」(鶴田禎次郎『日露戦役従軍日誌』)との記録が残されているらしい。

 明治37年から38年の日露戦争において、陸軍では脚気が大問題になった。「渡部昇一の昭和史」によると、日露戦争の陸軍の傷病でもっとも多かったのが脚気であり、総動員110万人の中で21万人の脚気患者が出て、死亡者が上記の27,800人である。日露戦争の全死者は84,000人らしいので、その1/3が脚気で死んだのだ。何とも切ない。ロシア人に脚気はほとんどなかったはずで、よく勝てたものだと思う。

 そればかりか、日露戦争後も、森林太郎は白米至上主義をかえず、兵士に白米を与え続けたという。渡部によれば、林太郎が固執した理由は、東大医学部出身とか、ドイツ留学経験とかの金看板を守りたいという縄張り根性にすぎないとみている。

 脚気問題について林太郎は、明治41年に陸軍省医務局長に就任した直後から、臨時脚気病調査会の創設(1908年・明治41年)に動いた。鴎外は会長代行を務めた。脚気の原因解明を目的としたその調査会は、陸軍大臣が監督した。コッホの助言によって東南アジアでの同種の栄養素欠乏症であるベリベリの調査が行われ、「動物実験とヒトの食餌試験」という手法が日本にも導入された。この結果、細菌説の支持者だった調査会の委員が栄養説へ転向したが、林太郎はこれを罷免したという! また麦飯派の寺内が求めた麦飯の効能の調査については、栄養の問題そのものを調査会の活動方針から排除した。最終的に「脚気ビタミン欠乏説」がほぼ確定して廃止(1924年・大正13年)された。

 鈴木梅太郎は、明治43年にニワトリとハトを白米だけで育てると、脚気になり、糠(ぬか)や麦、玄米を食べさせると回復することを報告した。翌年には、糠の有効成分を抽出し、オリザニンと名付けた。のちのビタミンB1である。

 なお、晩年の林太郎は、同調査会で調査研究中の「脚気の原因」について態度を明らかにしなかった。

林太郎が間違った考えに固執した理由

石黒との関係

 林太郎と石黒の結びつきは非常に強い。林太郎の明治14年の就職の時からだ。恩人と言ってもいいのかもしれない。その絆は長く続いた。石黒が赤十字の会議でドイツに行った時も林太郎が通訳したし、何もかも用意したのかもしれない。

 はじめに、林太郎が米飯を推奨し、海軍のやり方を批判したのは、明治18年の日本兵食論である。明治20年にもシモンズ、高木、そして脚気専門病院の医師たちを批判している。

 どうしてそこまでして米飯をすすめなければならなかったのか? 当時、陸軍は大量の米を使用していたはずである。1日1人につき白米6合というのだから驚きだ。麦飯に変えることで、誰かが損することになるのか? 陸軍が回らなくなるのか? 麦を供給できない事情があるのか?  

明治29年にも石黒は、林太郎の報告を肯定したうえで、米飯を変えないとしている。2人は強い信念のもとに、結びついている。

 日本の穀物の供給ということを考えると、麦飯に使う大麦やパンの原料の小麦を大量に供給することはできない。できるのは米だけだった。だか、米がダメとなると、陸軍の兵食がそもそも成り立たなくなる。こうあってほしい方向に持っていきたかったのだ。

 こういう場合、トップは、何とか大改革をしなくてよいように、何とか今までのやり方でやっていきたいと思うのが常だ。まず、石黒がそうだろう。林太郎もそれを援護射撃するような形になった。

 石黒との関係は、常によかったわけではない。まず、石黒のドイツ滞在中は、語学の堪能な林太郎がいろいろと世話を焼いたと思われる。赤十字での発言は、石黒のものだったか、林太郎のものだったかわからない。が、林太郎が石黒に手柄をプレゼントしたのかもしれない。

 林太郎はドイツから石黒と一緒に帰国したが、林太郎を追って、ドイツ人の娘、エリーゼがやってきた。しかし、周囲が反対して、石黒も対策に駆り出され、エリーゼをドイツ行きの船に乗せて帰国させた。

 ぐずぐずして、自分でけりをつけられない林太郎は評価を下げただろう。北里柴三郎は、ドイツ人の名家の娘と祝福されて結婚し、日本での生活をやがてはじめた。

 エリーゼが去った翌月には、林太郎は政略結婚している。しかもそれは、林太郎の別居で破綻し、また、石黒がかかわり解決している。自分でけじめをつけられない男とさらに思われたに違いない。

 また、林太郎は、老いた権力のある医師たちが医学界を牛耳っていることに反発し、学問を第一にすべきというような批判的な行動をした。これを石黒が気にしたはずである。何かの裏返しのような行動である。

 林太郎が小説を多く書いているのを石黒、そして、小池もよくは思ってなかったらしい。林太郎は、石黒と小池によって、九州小倉に左遷された。辞職も考えたそうだが、何とか踏みとどまった。

 石黒は、就職の時から林太郎にかかわり、林太郎にできないことをかわりに処理してきたわけだが、どこか複雑な関係ともいえるだろう。それでも、米食ということで一致していたのはおかしなことだ。おそらく、林太郎は、石黒に認められたかったのだ。

爵位が欲しかった

 こういう説もあるようだ。立身出世は、このころの男性にとって第一のものだろう。林太郎は順調に出世して、陸軍軍医総監、医務局長となった。中将相当の最高位である。文学博士号ももらっている。

 石黒のしりぬぐい。

文献

渡部昇一:渡部昇一の昭和史. ワック、2021

山本俊一:鴎外と脚気問題. 講座森鴎外 第三巻 鴎外の知的空間. 新曜社 1997

荒井保男:D・B・シモンズ知見補遺. 日本医史学雑誌 50:506-9、2004

松村康弘、丸井英二:わが国の「脚気菌」研究の系譜.日本医史学雑誌 32:26-42、1986

ウィキペディア

石黒忠悳:懐旧九十年.岩波文庫 1983