鴎外への鎮魂歌4 軍服の鴎外

 下の写真は、明治17年(1884年)10月8日にフランス マルセイユの写真館で撮影されたものである。留学のため欧州に向かう船の中で1か月半の長旅のあとである。鴎外は後列左から2人目。軍服姿は2人のみ。これが鴎外の最も古い軍服の写真らしい。みな、あらぬ方向を見ている。カメラ目線でないところが不思議な写真である。どこを見ればいいかわからなかったのだろうか?

 明治21年6月3日 ドイツに留学中の森鴎外は、コッホの元で学んでいた北里柴三郎、陸軍の上官で赤十字の世界大会に出席した石黒忠悳(ただのり)らとベルリンの写真館で写真をとっている。後列左端にいる鴎外だけ違う衣装に身を包んでいる。軍服なのだ。鴎外はもっとも年少だと思われる。

下の写真は、明治29年(1896年)12月 慶応義塾大学文学科卒業記念。2列目、3列目には卒業生。中央が福澤諭吉。右端が鴎外。ここでも鴎外だけ軍服姿。北里柴三郎は、鴎外の親友である東大医学部長の青山と対立していたため、ドイツから帰国してもポストがなかった。それを救ったのが諭吉だ。

 下の写真は、明治39年(1906年)5月17日にとられた東大医学部同窓会の写真である。真ん中の恰幅のいい軍服姿は、同じ陸軍の小池正直である。鴎外は、後列左端の鴎外がよく立つ位置にいる。隣の和服姿は、同じ陸軍の親友の賀古である。日露戦争の終わった凱旋記念も兼ねているらしい。それにしては、鴎外の立ち位置は控えめである。小池とずいぶん差がある。

 下の写真は、明治40年10月12日の第1回文部省美術展覧会第2部審査委員の集合写真という。ここでも軍服姿である。軍隊とは違う鴎外のもう一つの世界である。しかも芸術の世界である。ここに軍服で行くのはどんな意味があるのか? 主張なのか?

 大人数の中で一人だけ軍服の写真を鴎外のほかに見たことがある。

 下の写真に写るただ一人の軍服の男は誰か? トルストイである。1855年ペテルブルグの文壇に迎い入れられたトルストイ。前列左から2人目がツルゲーネフ。トルストイの隣はグリゴローヴィッチ。八島によればグリゴローヴィッチは次のように語ったという。「どんな意見が述べられるにしろ、話し相手の権威が高く見えれば見えるだけ、それだけいっそう執拗にトルストイは反対意見を述べて議論を吹きかけようと意気込むのだった」。

 「彼が耳を傾ける様子や表情の読めない灰色の目の深みから話し相手をじっと見つめる様子、また皮肉ぽく口をとがらせる様子などを眺めていると、どう見ても、彼が問いに対する直接の答えではなく、こんな意見を言えば相手は不意をつかれて狼狽するに違いあるまいと思い廻らせているようにしか見えなかった。若いころのトルストイは私にはそう見えた。議論ではトルストイはときに極端に走るのだった」。こんなトルストイをツルゲーネフは、未開人と名付けてからかったという。

 なお、鴎外は、トルストイの小説を訳している。また、東大法学部学生だった石橋忍月との舞姫論争という文学論争もある。

 鴎外とトルストイの共通点は多い。一人だけ軍服で撮影される、ヒゲ、舌鋒鋭く攻撃的な言動のあること、陸軍に属したこと、妻との関係があまりうまくいかなかったこと、小説家であること。ただ、戦争や平和、アンナ・カレーニナのような長編小説を鴎外は書かなかった。

 軍服は何を意味するか? 精神科医が言うならば、強さの象徴というか強調ということだろう。ヒゲにしてもそうだ。強い男性としての象徴。負けることの回避。強く見られたいということだ。豊かな才能を持った切れ者である。地位も申し分ない。文学でも成功を治めた。

 だが、強さを必要以上に強調しなければならない何かがあった。コンプレックスというか劣等感というか、引け目というか・・・。

 では、写真の端に位置どるのはなぜか? 年齢が若いなどのほかに、自分は本流ではないという主張、悪く言えば、ひねくれのような感情があったのではないか。

文献

八島雅彦:トルストイ.清水書院、1998

鴎外記念館:写真の中の鴎外