偉人の接点 スピノザとフェルメール 光と影

 最近「スピノザ よく生きるための哲学、フレデリック・ルノワール、田島葉子訳」を読んでいますが、これによると、「エチカ」などを書いた哲学者のスピノザ(バールーフ・デ・スピノザ)は、1632年11月24日にオランダのアムステルダムで生まれています。画家のフェルメール(ヨハネス・フェルメール)は、同じ1632年の10月31日ごろ(正確にはわかってないらしい)数kmしか離れていない、同じアムステルダムで生まれています。2人は一度も出会うことなく、40歳代の前半に死亡しました。共に業績は生前には評価されず、貧困の中にこの世を去っています。スピノザは、生活のためにレンズ磨きの仕事をしていたそうですが、フェルメールも光の画家ですね。ここにも共通点があります。アムステルダムは北緯52度(東京36度)にあり、平均気温は10.2℃、年間日照時間は1662時間(東京約2000時間)です。光が貴重なことがわかります。スピノザの哲学、光学レンズ、フェルメールの絵に共通するのは、精緻さという特徴もありますね。

 スピノザとフェルメールが生まれた2年前の1630年、福岡で貝原益軒が生まれています。スピノザが信仰ではなく理性によって神の存在を確かめようとしたということですが、益軒の場合は、「天」ということになるのでしょう。益軒はスピノザの2倍の年月を生きて養生訓を書きました。2人とも感情の統制に長けていて、受け入れがたい事態も冷静に対処でき、悪感情に囚われることがなかったようです。

スピノザ

暗い背景の中に光が差し込んでいる

フェルメールの自画像とされている

これも、光の効果が際立つ。緯度が高くなれば、光は横から入る。上から太陽光が注ぐ場合とはいろいろ変わってくることが予想できる。

 西郷隆盛は、文政10年12月7日(新暦1828年1月23日)に鹿児島の加冶屋町で生まれました。大久保利通は、2年後の文政13年8月10日(新暦1830年9月26日)隣町の高麗町で生まれした。大久保は、幼少期に下加冶屋町に転居して、西郷とよく遊び学んだということが、大久保の妹たちの証言でわかっているらしいです。文政10年は、二宮金次郎が栃木県桜町で復興に行き詰って出奔したころです。この鍛冶屋町は、軍人の東郷平八郎・大山巌、内閣総理大臣の山本権兵衛など、江戸時代から明治時代にかけて活躍した多くの政治家、軍人などの著名人の出身地であったようです。人口も1000人程度の狭い地域ですし不思議です。その背景には、郷中(ごちゅう)教育という町単位の年長者が年少者を剣術などをきびしく教育するシステムがあり、これが有効だったともいわれるようです。しかし、鹿児島はどうして人口当たりの精神科病床数が日本最多なのでしょう。西郷隆盛も島流しの先で監禁されていたときもありましたし。何か、文化とか気候とかと関係がある気がします。

大久保と西郷

 その他、生誕地が接近した偉人として、豊臣秀吉と加藤清正が挙げられます。秀吉は、天文6年(1537年)1月1日に尾張国愛知郡中村郷中中村(現在の名古屋市中村区)で、足軽と伝えられる木下弥右衛門・なかの子として生まれたとされます。同じ中村で、永禄5年(1562年)6月24日、刀鍛冶・加藤清忠の子として加藤清正が生れています。