偉人のうつ病 トルストイ その1 偉人つながり

 トルストイは、1828年8月28日にロシア中部のヤースナ・ボリャーナという村に、伯爵家の四男として生まれ、レフ・トルストイと名づけられたました.

レフとは、ライオンという意味らしいです。レオとかレオナルドに近いのでしょうか。トルストイは200軒の農奴の支配者という特権的な地位に生まれたのです。召使に囲まれて、農民の実態からは隔離された中で育ったのですが、ゴータマ・シッダルタ(仏陀)の幼少期とそういう点が似ています。世の中の汚らわしいものから遮断された世界にいたのです。同じ年の1月23日に、薩摩で日本の偉人が生まれています。西郷隆盛です。日本では文政10年ですが、この年は、栃木県桜町でもう一人の偉人 二宮金次郎が、改革の行き詰まりで精神的にも苦境に立たされていました。

 トルストイの写真はたくさんあります。この時、1854年は、「トルストイ」清水書院から拝借したものですが、クリミア線戦争に従軍しています。当時の彼は軍服が好きだったのでしょうか。ツルゲーネフなどの作家連との集合写真でも一人だけ軍服を着ていたりしています。西郷隆盛は写真嫌いです。写真はないそうです。(林房雄)そういうものを嫌ったのでしょう。弟の西郷従道の顔も参考にされて上野に銅像ができたのですが、除幕の後、ぜんぜん似てないと奥様は泣いたというエピソードを聞いた気がします。西郷は写真も肖像画も彼の思想から拒否していたのですが、銅像は彼にとってはもっとも避けたいものだったでしょう。

 偉人の多くが平和主義者ですが、戦争に出た偉人はほかにもいます。

 ガンジーです。南アフリカで弁護士をしていたガンジーですが、救急部隊で従軍しています。彼は南アフリカで人種差別のために苦労したのですが、それでも国に貢献しようとしたのです。どれがガンジーでしょう。下の写真、中列の真ん中がガンジーです。ガンジーにはいろいろの写真がありますね。弁護士になりたての頃のスーツ、ネクタイ姿のガンジーは、後の白い民族衣装で白髪短髪のガンジーと印象が全くことなります。

 トルストイはキリスト教でガンジーはヒンズー教ですが、互いに信奉しており、ガンジーはトルストイ農場というのを創ったほどです。手紙も残っています。トルストイとガンジーには、他にも共通点があります。それは、学校への適応がうまくいかず、中退していることです。トルストイは、1844年、カザン大学の東洋学部アラビア・トルコ語科を受験して不合格となったのですが、その理由は歴史や地理がまったくだめだったそうです。再試験で入学を許可されますが、やる気もなく進級できず、法学部に移りました。その後も学業はうまくいかず1847年に中退しています。ガンジーは、1887年に大学入学資格試験に合格してサマルダス大学に入ったのですが、英語で行われていた講義についていけず、1学期が終わって帰宅したときに、イギリスで弁護士資格をとったほうがよいと言われ、難しい勉強に怖気づいていたガンジーはすぐに飛びついています。そして、弁護士になってから、徐々に才能が開花したのですから、学校中退が良いこともあります。他にも共通点があります。ガンジー聖書と呼ばれた「獄中からの手紙」、トルストイの「トルストイ聖書」。トルストイは何と 4つの福音書を統合しようとしてたそうですから、その発想に驚嘆します。横道にそれすぎなので、ここでやめましょう。

ボーア戦争のインド人救急部隊にいるガンジー

 さて、偉人と偉人はつながっているという法則があるのでしょうか。クリミア戦争にトルストイが従軍し、最激戦地のセバストポリに着任したのは、1854年11月ごろ(26歳)とされています。トルコ、フランス、イギリスとの戦いでロシアは苦戦していました。

 偉人と偉人は、出会うものです。上の図で、セバストポリに入ったトルストイですが、黒海を挟んだ反対側の都市、スクタリに1854年同じ11月にイギリスの戦時大臣の要請で到着したのが 34歳のフローレンス・ナイチンゲールです。2人の偉人が最初に近づいた時期です。そもそもクリミヤ戦争は短期間でしたので、両者とも参戦しているとすれば、同じ時期にはなりそうではありますが、面白い接点です。ナイチンゲールの病棟は、プライバシーの点では劣りますが、今まさに必要だとされている換気が大切だということにナイチンゲールは気づいており、病室には常時換気する窓(3段の窓の内最上段の窓)があったようです。

 さて、トルストイは、1860年7月3日から1861年4月23日まで、2回目の西欧旅行をし、この間のどこかでロンドンを訪ねています。(ロマン・ロラン トルストイの生涯)

 一方、同じ1860年には、ナイチンゲール看護学校がロンドンに誕生しました。40歳のナイチンゲールももちろん関わっています。ですから、トルストイがロンドンを訪れた際に、ナイチンゲールともっとも近づいたことになります。

 トルストイと同年齢の西郷隆盛は、僧侶の月照を匿ったことにより、死亡したことにされ、名前を菊池源吾と変え、1959年から1962年まで奄美大島に滞在していました。はじめは流人としての扱いでしたが、次第に信頼を得るようになったのでしょう。島で婚姻して子供もできました。

 なお、ナイチンゲールは、1910年8月13日にイギリスの自宅で死亡し、同じ1910年の10月28日に家出した82歳のトルストイは肺炎になり、アスターポヴォ(現トルストイ駅)で10月31日に途中下車。ナイチンゲールが亡くなってから約3か月後の11月7日に死亡しています。

トルストイ駅

 トルストイとナイチンゲールの関係を書くのは私だけと思っていました。念のために「トルストイとナイチンゲール」で検索してみると何と、注目している人がいました。「クリミア戦争とトルストイ」というのがありました!

 さて、前にも書いたかもしれませんが、看護師のナイチンゲールは、兵士たちの病院での死亡率を低減させたのですが、感染症との戦いは数学・統計学の手法によるものです。前にもお話ししましたが、二宮金次郎も数学をよく利用した偉人です。理念とか気合とかいうのではないのです。残念ながら、いまでも精神医療にはそのようなものが役立つと思っている人がいるように思います。「犠牲なき献身こそ真の奉仕」とも述べています。無理のない治療をすすめたのでしょう。現在でも医療や介護の現場では、高い理念のもとで、頑張りすぎている人たちも多いことでしょう。患者さんもそれを看護する人も苦しすぎてはいけません。それは何とかしなければいけない問題でしょう。

 それから50年近く後の日本で、明治34年11月(1901年)に欧州から帰国して1か月の呉秀三は、現松沢病院の身体的拘束を急に廃止してしまったわけですが、これは多大な負担を看護者や介助者に与えたと思います。犠牲つきの献身を強いたことになったはずです。マザーテレサも「構成員の自己犠牲のみに頼る援助活動は決して長続きしない」といったらしいですが、この考えにも反するように思われます。ピネルがある看護者の考えを受け入れて少数の身体的拘束を解除したのと違うと思うのです。

 呉秀三はたいへん優秀な方ですから、看護者に大きな負担がのしかかるということは分かっていたはずです。どうして、呉はそれでも実行したのか、その結果どうなったのか、良いとか悪いとかの問題ではなくてそのへんももっと知りたいものです。物事の判断には現場をよく知ったり、現場の意見を入れることが大切なのか、そうではなくて、思い切って理念を優先した方が良いのか。失敗がわかっていてもそのようにすべきメリットはあったのかとか、現代のマネージメントにも関係する非常に重要な局面だと思うのです。

 呉秀三が推敲、校正が好きだったことは前にお示ししました。トルストイもそうだったようですし、宮沢賢治もそうでしょう。しかし、ただ好きだというのではないのではないかと思います。推敲は偉人の厳しい生の癒しとなっていたのではないでしょうか。呉の場合に近くの慧眼な弟子がそう見抜いています。ここも共通点ですね。

 寄り道ばかりしてしまいました。本題に入っていきたいと思います、2020年9月9日