道元の言葉 正法眼蔵随聞記 その6

2巻17章である。「人は善いことをすると、人に知られようと思い、悪いことをすると人に知られまいと思う。そのために心の内と外とが一致しなくなる」。

 人が他人に知ってもらいたいのは、自分が優れていることとか、立派なことをやり遂げたなどがあり、仕組みとしては、表彰があったり、勲章があったりする。研究者なら論文投稿して受理されるということだ。そうして人に知ってもらおうとする。また、自分が困難を抱えているとか、苦境に立たされていること、頑張っていることを知ってもらいたいという気持ちもある。評価してもらいたいし、わかってもらいたいのだ。それは人間のどうしようもない性だから、いいも悪いもないかもしれない。

湖が空を写すように

 しかし、善い事をやっても人に知られないこともあるし、自分の困難に気が付いてもらえないことも多い。悪事は知られたくないが分かってしまうこともある。そういう意味で、自分の中の願望とか、ありたい形と現実とは、ほとんど常に一致しない。一致しないところに苦しみがあります。ここでいう心の内とは、わかってもらいたいという気持ちで、心の外とは、現実に起こることーわかってもらえないこととなる。すると、心の内外が一致しなくなり、願望が満たされなくなる。そこに苦しみが生じる。

 これを克服するにはどうすればよいか? 道元は、「好い事は他人に譲り、悪事は自分がその責めを受ける意気込みですすめ」という。そういう立派なことが普通の人間にできるのだろうか?という問題はあるだろう。そもそも、そうすると、自分の心の内外が一致するのだろうか? いや、少なくとも苦しみは減るだろう。好いことがあっても、自分のものとならないことも多い。最初からそういうものだと思って他人に譲る気持ちならば、自分のものにならなくても大丈夫だろう。また、悪くないのに悪いものとされたり、あらぬ濡れ衣を着せられるときもある。それが当たり前だとしておけば、そう苦しまないで済むかもしれない。ソクラテスもキリストも、それは間違っているとは言わなかった。誤解をそのまま受け入れた。いや、ソクラテスは弁明したか。でも執着はしなかった。人生は不当だし、不当なのが人生だ。ほとんどの努力は実らないといってもよい。ナンバーワンになりたくてもナンバーワンは、一人だけだ。不当なら不当のままに進めばよいのだ。

 「われわれの生命は刻々に流れゆいて少しもとどまらず、物事は日々うつりかわって、一定の状態なく、変化することのすみやかなことは、だれでも目の前にみている道理である。

 これと同じことが、仏教でも鴨長明でも、いろいろな偉人が書いている。ということは、どういうことか? 非常に重要なことであり、かつ、凡人はそのことに気が付いてない、と偉人からは見えるので、何人もの偉人たちが強調しているのである。きっと。

心の中に開いた穴

一刻一刻に、明日のあることをあてにしてはならない。その日、その時だけを生きているものと考えて、このあとどうなるかはきまったものではない。・・・生あるものに利益を与えるため、身を捨て命を捨ててさまざまなことをおこなっていくのである」。

 人間は、しばしば認知に問題を生じる。たとえば、明日が同じように来るものなどだと錯覚している。道元にいわせれば、それは妄想なのだ。明日が来たら、それは奇跡だ。そうなる保証は何もない。そして、明日が来ない日が確実に来るのだ。ただ、明日が同じように来ると思い込んでいる。今日生きていることが奇跡だろう。「一日一生」という言葉を内村鑑三、酒井雄哉、そして、今日読んだアーノルド・ベネット(渡部昇一訳)にも書いてある。大事なポイントなのだろう。

その山の向こうにはまた山がある

 三章の二 ある時、弟子が、「今の建仁寺の敷地は、加茂川の河原に近いから、後世、洪水で流される危険がありましょう」と言った。僧正は、「われわれは後世になって寺がなくなる心配までしてはならない。インドの祇園精舎でさえも、礎石だけしか残っていないが、それでも寺院建立の功徳はなくなりはしない。後代はどうあろうとも、今さしあたって一年でも半年でも、ここで修業が行われる功徳は、莫大なものであろう」と言われた。

 ある人が、このように言う。「外国を見てみなさい。これから精神科の病院に入院する人は少なくなるでしょうから、新しく病棟を建て直したって借金で首が回らなくなるだけですよ」。道元だったらどう答えるだろうか。「今、患者さんに快適に過ごしてもらったり、職員が働きやすくなったりするのなら、先のことは心配しなくてもいいのじゃないか。祇園精舎もなくなったのだから、病院がなくなったって驚くようなことじゃない」。「まだ、安全やらくちん、悠々自適な老後を夢見ているのか」と怒られそうだ。

三です。「慈悲もあり、道心もあって、愚かな人に悪口を言われ、非難されるのはいっこう差し支えない。道心もないのに、人から人から道心のある人だと思われるのはよくよく気をつけねばならない」。

 悪口の幻聴、悪口の口コミ。本当のことなら、修正しなければならないが、だいたいは、間違っていることが多い。間違っているなら心配する必要はない。たいした思いもないのに、間違ってよい人だと思われてその気になることの方が弊害が多い。悪口をいっぱい言われてうれしいとは言えませんが。

自分の心で良いと思い、また世間の人が良いと思うことが、必ずよいのではない。だから、人からの批判も考えず、自分の心も捨て、ただ、仏の教えに従っていくのである。自分の心も、以前から習い修めた教義による推し量りを捨てて、ただ今現に見ているところの祖師の言葉や行いに、次第に心を移していくのである。そうすれば、知恵も進み、悟りも開けるのである」。

 みんなが思っていることが正しいとはいえない。ナチスもみんな正しいと思っていたのだ。過激派集団は、みんなそれが正しいと思い込んでいる。さらに自分が一番正しいと思っているから内部抗争もある。宗教も政治も大衆も。理念も正義も主義主張も学説も。ごく短期間のことしか見なかったりする。弊害を見なかったり、思い込んで安心したかったり、何かを悪者にして存在意義を確かにしたり・・・。

その奥にあるのは

それでも晴天の日は来る。