道元の言葉 正法眼蔵随聞記 その4

 第10章にいきましょう。道元は、禅話を聞いてよく理解し会得する方法として、自分が今まで理解していた気持ちを指導者の言葉に従って順々に改めていくことだと言います。親鸞は法然のことを絶対的に信奉しました。たとえ、だまされて地獄に堕ちてもいいとまで言っています。また、指導者がもし、仏というのは、ひきがえるみみずであると言えば、ひきがえるやみみずを仏であると信じて、それまでの知識を捨てるのだといいます。

 指導者の言葉に従って、自分勝手なものの見方や昔から持っている執着を改めていくと、おのずから道にかなうところがあるはずである、と道元は言います。

 ところが近頃の道を学ぶ者は、自分勝手なものの見方を捨てずに、自分の考えと合わないときは、「仏はこんあふうであるに違いないのだが」と言い、また、自分の考えているところと違うと「そうではありますまい」などといって、自分が勝手に推し量ったところと似たものがありはしないかと、あちこち迷いまわるから、ちっとも仏道の進歩がないのである。そんなに自分は偉くないのだ

 また、自分の身をだいじにして、指導者が「百尺竿の先に上って、手を放って一歩進め」と言うと、「仏道を学ぶのも命あってのことだ」と言って、指導者に心から従わないのである。

 小学校の低学年の時の学校の先生との間には信頼関係があった。先生のほか指導してくれる人もいないし、塾には行かないし、参考書もネットもないので、純粋に師しか頼るところはない。昔の寺子屋でも、前に述べた山田方谷でもそうだということがわかる。師もそのような責任性や緊張感から、ふさわしい教育者になりやすかったのかもしれない。

 新しく出てきた抗精神病薬を使っていたら、師にそれは麻薬のような薬だからあまり使わない方がいいといわれたことがあります。師というのは私にとっては絶対のものですから、完全に不使用というわけにはいきませんでしたが、使うのを躊躇しました。なぜ、そのようにおっしゃったのかも聞けませんでした。なぜか?などとは聞けないのです。そういうものでした。

 現代的な科学者の態度としてはそれではいけないのかもしれません。現に周りには、師に反発する若者もいましたし、現代の多くの現場でそういうことがあるでしょう。道元の時代からずっとそうですから。そういう人は普通は優秀な人で、自分で道を切り開いていけるような人たちであることもあります。

 ところが現代は、塾に行うのが普通、多くの書籍がある、ネット上にはさまざまな情報があふれている。教師はそういう意味ではやりにくいでしょう。医者でも同じで、30年以上精神科医をしてきても、患者さんからみれば、ネットの方が信頼される。自分の知っているところでは云々で先生の考えはちょっとちがうのではないかと言われることが結構あります。ネットに載っていることだって、新米の患者さんが書いたものでも信じてしまう。せめて30年患者さんをやっていて、しかもその時点で安定している患者さんの言うことを信じてもらいたい。精神医学は本当に深い。深いと感じる理由は、長く精神科医をやっていても、毎日のように想像と違うことが起こる。そのたびにびっくりする。新人のようだ。臓器をみる医学ではだいたい予測できることが多いだろう。脳より臓器の方が下位にあるからだ。

 しかし、精神医学的な面での行動、できごとなどは、想像を超えている。失敗させられる。ありえなかった人と出会う。コントロールしたくてもできない。身体的な医学だとコントロールしやすいし、できないときはその理由を探ることができる。しかし、精神科臨床では、なんでだか分からない。わかるという人がいるが、正しいか正しくないかわからない。

 師と弟子との関係、学生運動、宗教改革、いろいろなことがあります。関連しています。何が正しい、何が間違っているともわかりませんが。何百年前からもそういう問題があるということだけは事実です。面白いです。

 第11章に行きましょう。多くのことを同時に学んで、そのどれもしっかりできないよりは、一つのことをじゅうぶん究めて、人前でも通用するほどに学ぶべきであると道元は言います。斎藤孝氏によれば、1万回やれば技になるという。では、精神科医が一人前になるのにどのくらいかかるか? 精神科を学び始めるのは医師になって3年目。それから毎日、20回面接をするとする。いや今は、初めの1年は1日10回くらいの面接だ。1か月で200回。1年で2400回。2年目は少し増えて1日15回の面接で1か月で300回、1年で3600回。これで6000回だ。あと1年で4000回面接すれば、1万回となり、技となる。そして、ちょうど3年間で精神保健指定医も専門医もとれる時間と妙に一致する。不思議です。リーゾナブルなのかもしれません。