生き方を妙好人に学ぶ その1

 「妙好人」とは、浄土真宗の信者の中にいる一群の人たちのことです。この人たちに注目し記録してきた人もいるようですが、宗教哲学の面から初めて取り上げたのは、鈴木大拙(以下敬称略)です。鈴木大拙著「妙好人」第2版1刷(法蔵館)は1976年のもの、私の手元にあるのは第2版21刷の2016年に出版されたものです。また、岩波文庫「日本的霊性」の中で、2人の妙好人、赤尾の道宗と浅原才市を鈴木は紹介しています。鈴木は、禅を欧米に伝えたことで有名な方です。彼は、1870年明治3年金沢の藩医の家に生まれ、帝大生の時、鎌倉円覚寺(臨済宗)に参禅しました。1897年から1909年まで米国に滞在し、英語で禅や仏教文化を紹介する書を出版しました。1952年からの5年間はコロンビア大学の客員教授として、米国のさまざまな大学等で、禅や仏教についての講演を行っています。現代でも禅に関心のある欧米人は、鈴木の影響を間接的に受けている人が多いと思われます。1966年に聖路加病院(キリスト教系病院)で95歳で亡くなっています。

 私が妙好人のことを知ったのは、前にもブログで紹介しました哲学者の岩田靖夫の「よく生きる」(ちくま新書)によってです。妙好人とは欧米でいう聖人だと彼は言っています。そして、浄土真宗からたくさん出ていると言い、「因幡の源左」(いなばのげんざ)のことを紹介しています。この因幡の源左のことを初めにまとめ出版したのは、鈴木大拙の弟子の柳宗悦(やなぎそうえつ)です。絶版となっている柳宗悦「妙好人論集」岩波文庫1991、こちらも絶版の柳宗悦、衣笠一省編「妙好人因幡の源左」昭和35年を参考にしながら論じさせていただければと思います。なお、柳宗悦の書いたものには、いずれも岩波文庫の青帯で、「南無阿弥陀仏」(浄土思想を法然、親鸞、一遍と辿ったもの)、「柳宗悦民藝紀行」(美しい品物、良い工藝を求めて日本、朝鮮、中国を歩いた紀行文)などがあります。

因幡の源左
因幡の源左84歳 柳宗悦の「因幡の源左」百花苑刊より

 鳥取市役所のホームページに源左のことが載っていました。「妙好人とは、一般大衆の中で特に信仰心のあつい人のことをいいます。天保13年(1842年)山根の願正寺裏の農家に生まれた源左(本名 足利喜三郎)は、農業を営みながら聞法(もんぼう:仏教を聴聞すること)に励み、感謝の念を忘れず人々に尽くしたことから『妙好人』源左さんとして、人々の心の中に生き続けています。『ようこそ』とは、因幡地方の方言で『ありがとう』という感謝の心と『よくいらっしゃいました』という歓迎の意を表しています。源左さんの口癖でもあったといわれ、青谷の人々の暮らしに『ようこそ』の言葉に代表される温かい心が受け継がれています」との説明があります。

 柳は妙好人をこう説明しています。「念仏宗、特に浄土真宗で、篤い信心を頂いた在家の者を指していう。多くは名もない田舎の無学な人たちであるが、俗にあって浄い念仏の一生を送った人たちを敬って呼ぶのである。まさに源左はその妙好人の一人であった」。 

 源左は、天保13年1842年4月18日 現在の鳥取県気高郡(けたかぐん)青谷町(あおやちょう)で生まれ育ちました。鳥取から山陰本線で西に20kmほど向かったところに青谷駅があります。海沿いで平地は少なく、海岸には海水浴場が多いそうです。そして同地で昭和5年2月20日に89歳で死にました。源左は、文字も満足に読めない人だったらしく、当然、執筆などしていません。柳は、昭和の時代に源左と面識があった人に直接話を聞いてまとめています。

源左の碑
妙好人源左の碑

 青谷町(当時源左がいたのは山根というところ)は村を流れる日置川の水を利用して紙漉きが盛んな地域で、源左の持山にも 楮(こうぞ) 三椏(みつまた)が植えられていたといいます。しかし、彼は主に百姓として一生を終えました。青年時代には喧嘩も博打もしたそうですが、19歳の時に徳行が表彰されており、誠実、勤勉、陰徳が早くから彼の性質として現れていました。後にも何度か鳥取県から表彰されています。

 源左が18歳の時に後の源左の生涯に影響を与える出来事が起こりました。夏の日の午前中、源左は父親の善助と稲刈りに出ました。善助は、午後は気分が悪いと言って家に戻りましたが、その日の晩には亡くなってしまいました。急性の伝染病「ころり」であったと柳は言っています。源左の母親である千代は、檀徒一の娘だと言われた人で明治41年88歳まで生きましたが、父親はわずか40歳で急死してしまったのでした。

 その善助が亡くなるときに源左に言い残したの言葉は「おらが死んだら親様をたのめ」でした。それから、源左は死ぬとはどういうことか、親さまとはどんなものかと悩み暮らして仕事も手につかないようになりました。夜も昼も思案したといいます。翌年の春になって、ようやくまともに考えられるようになり、願正寺(浄土真宗の寺、源左の家は寺の裏にあった)やそこら中に聞いてまわったといいます。願正寺のご隠居に聞いても納得できず、本山(本願寺でしょう)まで行ったものの偉い坊さんに会ってもわかりませんでした。その間に源左は、そうとう頭を悩ましたようです。

願正寺
願正寺

 普通の人ならば、父親はわけのわからないことを言って死んだと思って忘れてしまい、悩み続けるなどということはないでしょう。どこか、そこに普通でない源左の性質を精神科医の眼からは見つけることができます。ともかく、源左は悩み、答えを求め続けます。何か不安感が彼のこころを覆い、答えを求めざるを得ませんでした。彼は、夜中の1-2時から起きて働く人でしたので、金次郎と同じように、勤勉、執着、熱心という性質(精神科医下田光造が躁うつ病の病前性格とした)があり、それが長期に続くとうつ病に至る可能性は大いにありえます。彼の非常な勤労と何かしらの欠乏感、悟りへの希求は関係があるように思います。

 「求めよ、さらば与えられれん」ではないでしょうか。30歳頃のある夏の日に突然、その時が訪れます。源左は、朝早く牛を追って裏山に上って草を刈っていました。源左の勤勉さは変わらず、2時頃から仕事をしていたといいます。いつも仕事の前にはお経を読んでいました。草刈りを終えて、牛の左右に一把ずつを付け、自分では負いきれない重い一把を更に牛の背に載せた時に「ふいっとわからせてもらった」と言います。「これが他力だなあ、親様の御縁はここかいなと分かって、その時にはうれしくてしょうがなかった」と言います。しかし、牛(その地方では、デンと言った)に草を負わせた頃、やっと夜が明けて、一休みしていると、又悩みが起こってきたといいます。その時、源左は「お前は何をくよくよしているのだ。仏にしてやっとるじゃないか」と如来さんの声がして、はっと思ったと源左は言っています。これは、源左の姪である棚田はつから柳が直接聞いた言葉です。マザーテレサが汽車の中で聞いた神からの言葉(召命といわれる)と同じような形で源左も聞いたのです。これは、幻聴と似たようなものなのか、精神医学や哲学で言う表象(ひょうしょう)というものな、単なる思い込みなのかわかりません。でも近似した宗教体験のように思います。

 源左は、この体験をいろいろな人に語っています。源左は、お灸と按摩と荷物持ちが好きで、その間に法話ができるからと言うのです。おそらく、源左は自分の体験を多くの人に語ったのです。源左の友人の娘の棚田このは、昭和34年85歳の時に柳からインタビューを受けこのように源左から聞いたと言っています。「父親が死んだときに『おらが死んで淋しけりゃ親をさがして親にすがれ』と言われたけれども、淋しいやら悲しいやらで、おらの心はようにとぼけてしまった。親をさがせっていわれても、親にすがれといわれてもわからなかった。夏のある日草刈りを終えて、デンに背負わせて、自分も一把を背負わないとと背負ったが、腹が苦しくて、デンに背負わせたら、すとんと楽になって、こりゃわがはからいではいけんわい、お慈悲もこの通りだということだなあと思って喜ばせてもらった」と言っています。

 木下みよという人は、このように源左から聞いています。「自分は、お慈悲のことがわからず、長い間、苦に病んだ。どうしてもじっとしていられず、いろいろな人に聞きまわったが、わからずにこれが苦になった。朝草刈りに行った時に「ふいっと」聞こえた。デンに全部負わせたらデンも辛いと思って、自分が背負ったら、自分がえらくなって、デンに背負ってもらったら楽になった。家に戻ったら、すぐにご隠居さん(願正寺の)に話したら「源左そこだ」と言われた。「ああここだと思って、世間が広くなって安気になりました」。

 ともかく、ここが、その後の約半世紀の源左の人生の転回点となったのです。統合失調症の場合には、生活史上に屈曲点とか屈折点というのがあると指摘する精神科医もいますが、悟りの体験の場合にも、徐々にというのもあるのでしょうけれども、点で変わることも多いです。先に紹介した金次郎や白隠はそうでしょう。ブッダもそうですね。禅宗の系譜もそうでしょう。それも長期間の修行がなかなか実を結ばず、苦労した末に、ふっと気を抜いた時に、意外な方法で、あっさり会得させてもらうという場合が多いように思います。

 さて、源左は何を分からせてもらったのか。柳は言います。「他力の教えを分からせてもらった。人間には負い切れぬ業を弥陀様が背負ってくださることである。源左の刈った草は、源左の業であるが、その業が源左の力では負いきれない。それを背負ってくれるのは牛である。牛は弥陀の姿である。草を食んで牛は牛となる。その草を牛が背負う。人間の業を食んで弥陀は弥陀となる。人間の業を背負わずば弥陀は弥陀とならぬ。すなわち、正覚を取らないと誓われたではないか。それが弥陀の大願だ、本願である。彼はその時いとも弱い自らの姿を見た。その弱い彼をこそ待っている弥陀の姿を見た。彼の見る天地の光景はがらりとその容貌をかえた。そこで不思議なことが起こってきた」と言います。源左はここで言います、「珍しいことだ。凡夫が仏になるということは」。

 ここで、誰よりもこの私が凡夫と言う自覚である。自分以上の凡夫はない、自分こそこの世で最も悪い者だということであると柳は言っています。

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