スピノザから学ぶ自由な生き方 2
スピノザの主著であるエチカは、第5部まであるのですが、第一部は「神について」です。とてつもない始まり方です。しかし、この後の展開にとって重要なところですので、原文のまま挙げます。
参考文献は、①工藤喜作、斎藤博訳:スピノザ エティカ.中公クラシックス. ②畠中尚志訳:スピノザ エチカ上下.岩波文庫. ③河井徳治著:スピノザ エチカ.晃洋書房. ④國分功一郎:スピノザ エチカ.NHKテキスト. ⑤國分功一郎:はじめてのスピノザ.講談社現代新書. ⑥上野修:スピノザの世界 神あるいは自然.講談社現代新書. ⑦G.ドゥルーズ:スピノザ 実践の哲学.平凡社.
定義
一 自己原因とは、その本質が存在をふくむもの、いいかえれば、その本性が存在するとしか考えられないもののことである。
自己原因という言葉自体を聞いたことがありません。中公クラシックスの訳者の注釈によれば、神の本質が端的に存在そのものであるということだろうとしていますが、それも意味がわかりません。これだけで、論文になってしまうほどの議論になる言葉のようです。ですから、そう簡単には分からないのですが、たとえば、このパソコンは作った人がいるので、自己原因でできたものではありません。私というのをみてみても、私自身からできたものではありません。地球ができたのも外部の原因があるということです。しかし、神だけは自己原因だといいたいのでしょう。ただ、反論も少しありますが、ここは素直に受け取っておきましょう。
二 同じ本性を持つ他のものによって限定されるものは、自己の類において有限といわれる。たとえば、物体は有限であるといわれる。なぜなら、われわれは常により大きな物体を考えることができるからである。同じように思想は、他の思想によって限定される。だが、物体は思想によって限定されないし、また思想は物体によって限定されない。
物体同士についてはわかる気がします。しかし、物体は思想によって限定されないのか?比較はできないが、限定の条件は比較可能性と考えればいいか。そう考えれば、思想と物体は同じ尺度で比較するわけにはいかないから、限定もされないということか? これに対しても、反論を挙げることはできますが、とりあえずこれも素直に受け取っておきましょう。
三 実体とは、それ自身において存在し、それ自身によって考えられるもののことである。いいかえれば、その概念を形成するために他のものの概念を必要としないもののことである。
一般的に考えるならば、実体という場合、形のある物体と思ってしまうのですが、スピノザの考えでは逆のようです。木材からできている机というのは、スピノザの考えでは実体ではないといいます。たいていのものは、他の概念によって説明される。説明されないものなどあるのか? 実体とは、真に実在するものとか、化する現象の根底にある本質的なものを意味するといいます。分解できるものも実体ではないでしょう。なぜなら、分解できるなら、その構成要素があるから。じゃ、恋愛というのはどうか?恋愛には人間同士が必要だから実体ではないようです。では、愛とか真理というのはどうでしょう。結構実態に近いものでしょうか。でも愛には人間が必要ですかね。成立に必要のあるものが必要なのは実体ではないようですね。実体は神だけだということを言いたいのだと思います。
四 属性とは、知性が実体に関してその本質を構成するものとして認識するもののことである。
普通属性とは、あるものに共通して備わっている性質や特徴のことです。例えばダイヤモンドの属性は、その堅さであるとか、光を強く屈折させるとか、そういうことが普通に言われる属性ではないでしょうか。スピノザは次のようにいいます。属性は本質に属し、本質を構成する性質をいうこともある。属性は実体の本質を構成するものであって、しかもそれは、実在とみなされている。この属性の数は無限に多くあるが、人間によって認識される属性は、思惟と延長しかないと注に記載されている。延長は物体の空間上の広がりを指し、スピノザによると、物体の本性として延長がとらえられるらしい。これらの言葉は、デカルトの考えと対比しながらみるべきものらしいです。三と合わせると、神の本質を構成しているものが属性であるということになる。それは何でしょう? つまり、人間が神の本質とみるものを属性というという意味の文章でしょうか。
五 様態とは実体の変容、いいかえれば、他のもののうちに存在し、また他のものによって考えられるもののことである。
実体とは神であり、神の形が変わって、つまり変容して、様態となる。注によれば、神によって産出された有限者を意味しているという。人間とかか。するとこうなります。人間とは神の変わったもの、様態であり、自己原因ではなく、外部のものによってできているものです。
六 神とは、絶対無限の存在者、いいかえれば、そのおのおのが永遠・無限の本質を表現する無限に多くの属性から成り立つ実体のことである。
日本人は、めったに神などといわないから違和感満載ですが、神は実体、実体と言えば神。神は無限だから比較することはできない。永遠であり無限であり、人間の認識力ではとらえらえない。無限の属性からなるとは、ありとあらゆるものに神が宿っているというか、神からできているといえばいいのか。その属性を人間はいくつかしか認識できないらしいです。
七 自由といわれるものは、みずからの本性の必然性によってのみ存在し、それ自身の本性によってのみ活動するように決定されるものである。だが、これに反して、必然的あるいはむしろ強制されているといわれるものは、一定の仕方で存在し、作用するように他のものによって決定されるものである。
急に自由が出てきました。神といい、自由といい、唐突な感じを受けます。普通、神とか自由とかを日常的に考えるということがありません。ほとんどの人間は不自由ではないか。仕事は強制されてやっている。余暇の使い方は家族の意向によって決められている。私がこの文章を書いているのは、確かに人に強制されるものではない。自分の内面に強制されているのかもしれない。これは自由なのか。すごく楽しいか?といわれるとそうでもない気がする。多くの人に読んでもらいたいという下劣な下心があって、それに支配されているから純粋な自由ではないのかもしれない。どんな行動でも、金が欲しいということもあったり、奉仕活動でも人に褒めてほしいというのが若干あったり、完全に純粋なものは少ないでしょうね。しかし、その他の欲求を取り除いた度合いによって自由度が異なるということでしょうか。
八 永遠とは存在そのもののことである。だが、この場合の存在とは、永遠なものの定義のみから必然的に生じてくると考えられる存在のことである。
こんなペースで進んでいたら、永遠に終わりそうもない。しかし、いつまでにやらなければいけないことではない。そういう意味では自由なのだ。永遠と存在がそれらだけから定義されており、外部から定義されていない。回文みたいで、これでは定義にならないのではないだろうかと普通考えます。スピノザ自身の説明によると、このような存在は、ものの本質と同じように永遠の真理と考えられるからである。そして、このため、たとえ持続には始まりも終わりもないと考えられても、このような存在は持続や時間によって説明されることができないからである。注によると、持続とは有限者の存在のあり方を示し、それは時間的な継続の意味に理解されている。これに反し、永遠とは無時間を意味し、時間的存在とは無関係な無限者の存在様式であるといいます。
次に「公理」が続きます。
公理
一 存在するものはすべて、それ自身のうちにあるか、それとも他のもののうちにある。
それ自身のうちにあるものは神であり、それ以外は、神以外であるということであろうか。
二 他のものによって考えられないものは、それ自身によって考えられなければならない。
神は他のものによって考えられない。
三 与えられた一定の原因から必然的にある結果が生じてくる。逆にいえば、一定の原因が与えられなければ、結果が生じてくることは不可能である。
かならず原因がある。ただし、神の場合はちがうということでしょうか。
四 結果についての認識は原因の認識に依存し、その原因の認識をふくむ。
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五 たがいに共通なものをもたないものは、またたがいに理解しあうことができない。すなわち一方の概念は他方の概念をふくまない。
理解し合うというものは、人間だろう。共通なものを持たない者同士は理解できないということか。しかし、例としているのは、概念です。しかし、概念は理解しないでしょう。わからないです。
六 真の観念はその対象と一致しなければならない。
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七 存在しないと考えられるものの本質は、存在をふくまない。
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というわけで、わからないところがかなりあります。とりあえず、わからないままにしておきます。
その後、「神について」の中には、36の定理が示されており、最後に付録があります。この中では、実体、無限、本性、属性などがいろいろと現れます。それらの関係が語られますが、かなり難解です。定理七と注解があります。ここを読んでみましょう。
定理七 実体の本性は存在することである。その証明として、実体は他のものによって産出されえない。それゆえ、それは自己原因である。すると、定義一により、その本質は必然的に存在をふくんでいる。いいかえれば、その本性は存在することである。かくてこの定理は証明された。
スピノザは、この証明を理解できる人とできない人がいて、後者は、実体に始まりがあると勘違いをするとか、樹木がさながら人間のように話すことを虚構したり、神的な本性を人間の本性と混同したりするとしています。一方、理解できる人は、実体を認識するために他のものを必要としないのだということがわかる。これらのことから、同じ本性を持つ実体がただ一つしかないことを他の仕方で結論することができるとしています。
さらに進んで、定理十一はこうである。神、すなわちそのおのおのが永遠・無限の本質を表現する無限に多くの属性から成り立つ実体は必然的に存在する。これをスピノザは、公理と定理を用いて証明していますが、難解で私には理解しがたいものです。ともかく、スピノザは、神が必然的に存在するということを何度も強調しています。しかし、神が存在するか存在しないかということは大問題であり、そう簡単には結論が出ないのではないでしょうか。この証明を見せられても、多くの人はわけがわからないでしょう。スピノザ自身も「多くの人たちはおそらくこの証明の明晰さをかんたんには理解できないだろう。なぜなら彼らは、外部の原因から生ずるものだけを観想することになれているからである」といっていますが、この言葉自体が難解です。しかし、スピノザの結論としては、永遠・無限の本質を表現する無限に多くの属性からなる実体は確実に存在し、それを神というのだと言っているようです。
外的な原因から生じるものは、完全性や実在性についてもっているものすべてを外部の原因の力に負っている。したがって、その存在は外的な原因の完全性から生まれ、それ自身の完全性から生ずることはない。つまり、実体や神というものとは異なります。
これに反して実体は、完全性についてもっているすべてのものを何一つ外的な原因に負っていない。その存在もそれ自身の本性のみから帰結されなければならない。この辺は何となくわかった気になります。
定理十四は、神以外にはいかなる実体も存在しないし考えることもできない。注によると、スピノザにおいて存在するものは、神=実体とその変様しかない。しかも後者は前者に含まれるとされています。
定理十五は、存在するものはすべて神のうちにある。そして、いかなるものも神なしには存在しえない。実体と様態しかなく、様態は神の本性の中でのみ存在するから。また、神が人間のように身体と精神を持ち、感情に隷属すると考える人たちがいるが、それは明らかに間違っているといいます。実体は限定もできないし、比較もできないし、形もないはずですし、確かに人間のような姿をしていると考えるのは偏見でしょう。
また、神だけがみずからの本性の必然性からのみ存在し、自らの本性の必然性のみから活動するから、神のみが自由原因であるという。神だけが原因がないということでしょうか。
個物は、神の属性の変様、あるいは神の属性を一定の仕方で表現する様態にほかならない。個物を人間としてみてもいいでしょう。人間は神の変様の一つであるどころか、すべてのものが神の変様ということでしょう。
定理二十九はこうである。自然中には何一つ偶然なものはない。いっさいは神の本性の必然性から一定の仕方で存在や作用へと決定されている。
定理は三十六で終わり、その後に付録が続きます。彼の言いたいことはこうです。
「私は神の本性とその特質を説明した。すなわち、神が必然的に存在すること、唯一であること、その本性の必然性のみから存在し活動すること、いっさいのものの自由原因であること。いっさいは神のうちにあり、しかも神がなければ存在することも考えることもできないように神に依存していること、そして、一切は神から予定されており、しかもそれは自由意志とか絶対的な神意からではなく、むしろ神の絶対的な本性、あるいは無限の能力によることなどを説明した」。
人間は自分を自由だと思っているが、自分を衝動や意欲に駆り立てる原因については知らないから、夢にもその原因については考えつかない。人間は自由に行動している、自分の意志で動いていると考えるのは偏見であり、外部の原因が必ずある。それに気づかないだけだということになる。本当に自由で外部に原因を持たないのが神だというのだろう。少しわかった気がします。
「人間は、いっさいをある目的のため、すなわち自分の欲する利益のために行う。さらに彼らは、自分の利益を求めるために有用な手段が数多く自分の内外にあるのを発見する。物を見るための目、噛むための歯、栄養のための植物と動物、太陽、魚を捕るための海などを発見する。これらのことから、彼らはすべての自然物をいわば自分の利益のための手段と考えるようになった。次に、その手段を誰かが自分たちのために用意してくれたと思うようになった。このことから、神を作り出し、神を自分の性格から推し量って考え出した。この偏見がもとで、人間の心に深い根を下ろした。彼らは、自然がむだなことを何一つしないと思い込もうとするが、さまざまな有害物、病気、暴風雨などを発見せざるを得なかった。そのため、神が怒ったからこのようなものが生じたのだと思い込もうとした。だが、日常の経験はこれと反対であり、有用物と有害物が敬虔な人にもそうでない人にも同じように無差別に生じるが、彼らはこの古い偏見から抜け出そうとはしなかった」。
マタイの福音書第5章44節は次のようになっています。
「しかし、わたしはあなたがたに言う。敵を愛し、迫害する者のために祈れ。こうして、天にいますあなたがたの父の子となるためである。天の父は、悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ、正しい者にも正しくない者にも、雨を降らしてくださるからである」。そう、スピノザの言う通りに無差別に生じているのです。面白いですね。スピノザの認識と聖書の記載。
「神は自分の目的のために働かない。なぜなら、目的のために働くならば、彼は自分に欠けたものを欲求していることになるからである」。
「人間は、生じてきたすべてのものが自分のために生じてきたのだと一度でも思い込むと、あらゆるものについて、自分にもっとも都合の良いものを重要なものと判断し、彼らがもっとも心地よく刺激を受けたものをもっとも価値のあるものだと評価するようになった。善、悪、秩序、混乱、温かさ、寒さ、美、醜などの概念を作らなければならなくなった。そして、彼らが自分たちを自由であると思うことによって、賞賛と非難、罪業と功労というような概念が生じてきた」。
「彼らは、健康と敬虔に役立つものを善とし、その反対を悪と呼んだ。また、秩序がものの中に内在していると確信した。さながら、秩序が自然の中に存在しているかのように思ってしまう」。
「彼らはまた、神がいっさいを秩序に従って創造したといい、人間に対する思いやりからいっさいのものを秩序付けたと思ってしまう。しかし、真実は、われわれの想像をはるかに超えるものが無限に多く存在する」。
「もし、いっさいのものが神の最高完全な本性から生じたとすれば、どうして、醜悪、混乱、害悪、罪などがあるのかといわれるかもしれない。しかし、ものの完全性は、その本性と能力からのみ評価されなければならない。ものが人間を喜ばせたり悲しませたり、人間の本性に適合したり反対したりするからといって、その完全性は増えもしないし減りもしない。神は最高の完全性から最低の段階にいたるいっさいのものを創造するために、何一つその素材を欠くことがなかった。無限の知性によって考えられるすべてのものを産出するのに十分なほど包括的なのである」。
二宮金次郎は、困難な中で、成田山新勝寺で開眼したのですが、その時の認識として、次のような善と悪の認識があります。二宮翁夜話(巻の一)
「翁はこう言われた。世界はめぐりめぐって止むことがない。寒さが去れば暑さが来、・・・築いた堤防は時々刻々に崩れ・・・これが天理の常である。しかし、人道はこれと異なる。なぜならば、風雨に定めがなく寒暑が往来するこの世界に、羽毛もなく生まれてきた人間は、家がなければ雨露をしのぐことができず、衣服がなければ寒暑をしのげない。そこで人道というものを立てて、米を善とし、はぐさ(水田にはえる雑草)を悪とし、家を作るのを善とし、壊すのを悪とする。天理からみればこれらにも善悪はない。・・・天には善悪はないから、稲とはぐさの区別をしない。種のあるものはみな成育させ、生気のあるものはみな発生させる。人道はその天理に従うけれども、そのうちにそれぞれを区別して、稗(ひえ)やはぐさは悪とし、米や麦は善とするように、みな人身に便利なものを善とし、不便なものを悪とする」。
さらに、夜話(巻の三)で、「善悪はもともと一円である。盗人仲間では、よく盗むのを善とし、人を害しても盗みさえすれば善とすることであろう。ところが世の法は、盗みを大悪とする。天には善悪はなく、善悪は人道で立てたものである。たとえば草木のごとき、何の善悪があろう。それを人の側からして、米を善とし、はぐさを悪とする。食物になるかならなかのためである。天地にどうしてこの区別があろうか。はぐさは生じるのも早く育つのも早い。天地生々の道にしたがうことがすみやかであるから、これを善草といってもさしつかえなかろう。稲や麦のごとく人力を借りて生ずるものは、天地生々の道にしたがことがはなはだ迂闊であるから、悪草といっても差し支えなかろう。ところが、ただ食えるか食えないかをもって善悪を分けるのは、人の都合から出た片寄った見方ではないか。この原理をしらなければならない」。
「見渡せば遠き近きはなかりけり 己々が住処(すみど)にぞある」
「人は米くい虫だ。この米くい虫の仲間で立てた道は、衣食住になるべきものを増殖するのを善とし、この三つのものを損害するものを悪と定めている。人道でいう善悪は、これを定規とするのだ。これに基づいて、すべての人のために便利であるのを善とし、不便利になるのを悪と定めたものであるから、天道とは別のものであることはいうまでもない。しかし、天道に違うわけではない。天道に従いつつ、違うところがある道理を知らせたいだけだ」。
二宮金次郎は、哲学が本職ではなかったわけですが、どうです、何と善と悪に関する認識で驚くほどスピノザと一致していますね。そして、この善悪の認識、人間の認識の不十分さとか、偏見について同じように重要性を指摘していますね。スピノザも金次郎も同様に強調しています。すぐれた人間にしか気づけないところを二人は気が付いていました。聞いた人はほとんどわからないでしょう。わからないけれども何か重要なことを言っているらしいとしかぐらいしかわかりません。スピノザは3つの認識様式ああるといい、第1の認識様式は、偏見や思い込みに満ちたものだといいます。2番目の認識様式はまあまあで、3番目の認識様式は直観と関連のあるものでもっともすぐれた認識様式としています。金次郎は、「至誠神のごとし」という言葉を残しています。至誠を追求していくとある段階になると、神のような直観的認識力が生まれるということを言おうとしたようです。ここにも共通性がみられるように思います。お二人とも、認識を間違いなくすることが大切だという点で一致しています。