鷹山、金次郎、方谷 2  家庭生活

家庭生活

 マザーテレサのように家庭生活のない偉人は希であり、多くの偉人たちは妻を持ち、子供を育てています。ただし、代償なのでしょうか、偉人の家庭生活は多くの問題を抱えています。ルソー、トルストイ、ガンジー・・・

家庭生活と言ってもいろいろありますが、3人の妻について、つまり結婚生活についてご紹介します。

鷹山の場合

 鷹山は上杉謙信で有名な上杉家に養子に1760年ごろ迎えられました。9代目の藩主上杉重定のころには、米沢藩は日本でも1,2番目の貧乏藩になっていたといいます。

 重定は鷹揚な性格で、ありがちなことに側室も女中も多く置いていました。後の鷹山とは考え方からしてまったく異なりますが、鷹山の教育にはお金をかけ、後にお話しすることになりますが、鷹山をバックアップし、鷹山も心からの孝養を尽くしたといいます。 

 1769年8月23日に鷹山は重定の娘幸姫と桜田上屋敷(現在の港区麻布中学高校の当たり)で婚礼の儀を執り行ったといいます。重定は正室との間に3人の娘がいたが、2人は夭折しており、幸姫だけが尾張徳川家の血を引いていたといいます。鷹山19歳、幸姫17歳でした。

麻布中高前の松 鷹山の頃にも松があったらしい

 幸姫は病弱で夫婦生活の営める体ではなかったといい、子供のままの体格で知能の発育も人並みではなかったといいます。精神発達遅滞だったのでしょう。鷹山は幸姫をいつくしみ、できるだけ時間を作って、ままごとや人形遊びに付き合ったと言います。幸姫も鷹山を慕い、自分のもとに来ると大喜びだったそうです。

 そんな幸姫であることを知った家臣は江戸にも側室を置くように鷹山にすすめましたが、国元に側室を1人置いただけだったといいます。幸姫は30歳で早逝しました。

 その後、鷹山は米沢で側室をもうけたました。10才年上のお豊は、教養が高く和歌が堪能で、穏やかで控え目な性質であり、生涯にわたり鷹山を支えました。

今こそ上杉鷹山に学べ

金次郎の場合

金次郎は、25歳の1811年に、栢山(かやま)村の所有田畑を小作に出し、小田原の服部家などの武家の奉公人として屋敷に住み込みました。そこで金融のことなどを学び、人々が高利貸し付けに苦しんでいるなどの社会問題も体験的に学んだらしいです。

 金次郎は、のちにさまざまな計算を基に計画をしており、数学が得意だと思われますが、このころに学んだのかもしれません。給金、小作米、米の売買益、貸金の利子収入など多角経営をするようになりました。今はやりの副業などを上手に行う才能がありました。

 29歳の頃、栢山村にもどり、服部家の奉公人の仲間である倉蔵の妹のきのと結婚します。きのは、長男徳太郎を生みますが、生後2週間後で夭折してしまいました。きのは愛児を失った心痛と孤独感にさいなまれ、実家に戻り、離婚に至ったといいます。

 このころの金次郎は、優れた才覚を現し始めていたのですが、普通の人間にはその偉大さは全く理解できなかったかもしれません。きのには、5両という大金を贈ったといいます。多忙で家庭をかえりみられなかったということに慙愧の思いがあったのかもしれません。

 その翌年、服部氏は、女中のなみを再婚相手に選び、結婚式を盛大に行ったとのことです。なみについての記録も少ないらしいですが、桜町では、金次郎の仕事を何かと邪魔する豊田正作にうまく対応するなど、金次郎の力になったのではないかと思われます。

二宮金次郎正伝

方谷の場合

方谷の生まれた松山藩のとなりの新見藩には、高名な儒学者、朱子学の丸川松陰が塾を開いていました。松陰の父親が所用で江戸に旅立った留守中に松陰の母親が発狂してしまい、松陰は13歳からの18年間ひたすら看病をしたといいます。自宅から20キロ離れた親戚筋の寺にあずけられ、この塾で、方谷は5歳から父親が死亡した15歳まで学びました。方谷はきわめて優秀であり、松陰も高く評価し、孫のように大切にしていました。

 しかし、父親の死亡でやむなく方谷は家に帰り、5歳の弟と父親が再婚してまもなくの義母の面倒をみながら家計を支えます。農業の傍ら菜種油の製造にかかわりますが、金銭欲と名誉欲にまみれた商人との付き合いは、方谷にとって悔恨の日々でした。

 そのような状況の中、17歳の若さで1つ年下の嫁、進を新見からめとりました。

 幸運なことに、松山藩主板倉勝職(かつつね)が方谷を見出し、経済的に支援し、文政8年、21歳の時に、学問の道に戻れることとなりました。

 文政10年(1827年)23歳の方谷は、妻と生まれたばかりの娘を残して、京都に遊学します。丸川松陰の知り合いの寺島白鹿の塾で朱子学を学ぶようになりました。

 天保2年2月方谷が郷里に帰っていた時、藩主から賜った邸宅から失火し藩校の有終館まで焼いてしまいました。夫を京都にやりたくなかった妻の進が家に火を放ったという狂気説が語り継がれているそうです。方谷の手紙には、進が後年になるほどヒステリー症状が激しさを増したことから考えるとありうるとする人もいます。

 方谷32歳の時に11歳の娘さきが死亡しました。そのため、方谷は帰郷しましたが、6年ぶりでした。家庭生活がうまくいくはずもありません。娘の死がさらに進の精神症状を悪化させたかもしれないといいます。義母は、きまぐれな過度のヒステリー症状を呈する妻におびえ切っていたといいます。

 久しぶりの家庭は暗い狂気をはらんで安息をみいだせる場所ではなかったとされ、この妻の問題を方谷は医者で弟の平人に相談していました。平人が松山に帰って開業した年、方谷43歳の時に、ついに妻の進と離婚に至りました。

藩の借金を返済し、200億円貯金した男 山田方谷

まとめ

 3人の偉人たちの結婚生活は、必ずしも順調といかないばかりか、苦悩の種になっていたようです。

 結婚生活で一番癒されたのは、精神遅滞と思われる幸姫と結婚した鷹山だったかもしれません。

 どの結婚であっても、偉人の偉人性のもっとも稀有な点については、まったく理解されなかったといってもいいかもしれません。幸姫は、鷹山がどういうことをした人間か理解できませんし、自分の元に来て、ままごとをしてくれる、相手をしてくれる鷹山が好きだったはずです。

 金次郎の妻きのにしても、方谷の妻進にしても、偉業などどうでもよかったのではないでしょうか? 彼らにとって大切なのは、今日の食べ物のことや家庭生活、子育て、金など、現実的なことなのですから。一方、偉人の方は、大きな志があり、生命をかけて邁進する必然性があることから仕方がないともいえましょう。

人間にとっての幸せとは何でしょうか? ①偉業を成し遂げることでしょうか?

 妻や家庭を大切にし、②夫や親としての役割を存分に果たすべきでしょうか?

①は、多くの人々を幸せに導きます。②は身近な人を幸せに導きます。

文献
鈴木貞夫 今こそ上杉鷹山に学べ.幻冬舎

矢吹邦彦 炎の陽明学ー山田方谷伝ー 明徳出版社

二宮康裕 二宮金次郎正伝 モラロジー研究所