鴎外への鎮魂歌7 結婚

 長井長義(1845~1929)は、徳島県の藩医の家庭に生まれた。鴎外の17歳年上だが、父親がともに藩医ということでは一致している。頭脳明晰だった長義は、22歳の時、長崎の医学校に国内留学。オランダ人の医師ボードウィンに学んだ。また、長崎で上野彦馬という写真の開祖と出会い、化学実験の面白さを感じたらしい。これが将来の方向性を決めたのかもしれない。

 その後、明治元年(1868年)に、藩主の侍医として上京し、東大の前身の大学東校で医学を修め、ボードウィンに再会し、ドイツ留学をすすめられた。明治3年、明治政府の第一回欧州留学生11人のうちの1人に選ばれ、ドイツに留学する。明治4年5月から13年間をドイツで過ごした。

ベルリン大学に入学し、興味を持った化学の道に進む。世界的な化学者ホフマンに学び、優秀な長井はホフマン教授に助手を頼まれるという名誉を得た。明治16年に35歳の長井は、ホフマン教授から、ドイツ人と結婚することをしきりにすすめられた。その理由は、優秀な長井をドイツに止めおきたかったかららしい。

 その後、長井はスイスに旅行中、ドイツから旅行中の女性に声をかけた。これが、17歳年下のテレーゼ・シューマッハである。父親はアンダーナッハ(ドイツ南西部の町)で石材工場を経営していた。

長義とテレーゼ

 長井は明治17年5月にいったん帰国する。同年8月には鴎外が出国している。6月には長井は東京大学で化学の教授となり、明治18年には、喘息の治療薬となったエフェドリンを抽出した。明治18年12月、再びドイツに行く。

 42歳の長井は、ベルリンで、25歳の鴎外と会い、そこに24歳のテレーゼが同席した。鴎外はテレーゼの美貌に目を奪われたらしい。

 明治19年3月17日に長井は、アンダーナッハで結婚式を挙げた東大医学部長や文部省の幹部が出席した政府が祝福する結婚であり、花火の打ち上げがあるなど、町中で祝われた式であったという。7月30日に夫人同伴で帰国。明治21年から、日本薬学会初代会頭に就任してその後長期にわたり薬学の第一人者であった。日本女子大学の創立に尽力、雙葉学園の創立にも関与して雙葉と名付けたという。明治44年には日独協会の創立と理事長に就任。夫人とともに日独親善に努めた。

長井の住んだ東京青山の三千坪の土地(千駄木鴎外観潮楼の10倍の広さ)の多くが死後に日本薬学会に寄贈された。この地に薬学会館がある。六本木通り沿い。

長井記念館 2022年12月

 明治21年鴎外は5年ぶりに日本に帰国した。鴎外は明治20年に、舞姫のモデルとなるエリーゼ・ヴィーゲルトとベルリンで出会ったらしい。明治21年9月8日に鴎外は横浜に着いた。後の船でエリーゼが追ってくることをフランスの列車の中で上司の石黒忠悳(ただのり)に話している。鴎外はエリーゼとどうするのか、はっきりと決められなかったようである。受動的な様子が見られる。

 石黒は大変な面倒なことを抱えたと思ったに違いない。そもそも軍人が他国の女性と深い関係にあること自体好ましいことではない。さらに、森家では、それこそ鴎外の理想的な婚姻を計画していたようだ。母の峰子の主導権の元に計画が進められていく。まず、妹の喜美子が東大教授の小金井良精に嫁いでいる。小金井はドイツ留学経験がある。

 9月12日には、エリーゼは横浜に着いている。しかし、この時点では、すでに母峰子の従兄弟である西周が赤松則良海軍中将の娘である赤松登志子を森家にすすめていたらしい。小金井、石黒がかかわり、何とかエリーゼをドイツに帰国させたのは、10月17日である。エリーゼにとっては、何とも切ない35日間であった。鴎外は直接会わず、、小金井と鴎外の弟の篤次郎が会って説得して帰国させた。

 エリーゼが出港した3日後に、母親の峰子は西周に結婚の斡旋を依頼した(正式にということだろう)。赤松家は榎本武揚、順天堂創始者の佐藤泰然、その他陸軍軍医本部長などが姻戚関係の名家である。しかも、佐藤泰然の次男松本順は、陸軍軍医のトップであり、石黒は松本によって引き立てられてきたというから、そのつながりの深さには驚く。エリーゼが去ってわずか22日後に婚約した。峰子はこれ以上ない良縁とみたのだろう。

 鴎外は明治22年3月に赤松登志子と結婚した。しかし、長男於菟(おと)が生まれた明治23年9月の翌月には離婚してしまった。わずか1年半の結婚生活である。同年の1月にはエリーゼがモデルの「舞姫」を発表しているから複雑だ。「あなたの心はまだエリーゼにあるの!?」ということもあったかもしれない。

 幸田露伴が小林勇に語ったことによる(蝸牛庵訪問記)と、「森が外国で作った女が追いかけてきたりしたので、(登志子は)ヒステリーになってしまい、それを森のおっかさんだか、森だかが嫌って追い出してしまったのだが、それにも私などを道具に使った気もする。なにしろ森の家に行くと、夜十二時になっても一時になっても、お母さんと一緒に引き留めて離さない。それで自然と細君と親しめないようになるからね」。

 これを露伴が語ったのは昭和11年のことで、その約30年前のことだからどれだけ正しいか分からないが。幸田露伴はたまたま赤松登志子の父とも知り合ったのでそのあたりのことを知っているらしい。この時、鴎外全集が出るということから回想が述べられた。

 母親のいなくなった於菟は、峰子が育てることになった。峰子は教育祖母ぶりはすさまじい。登志子は再婚したが、1900年にわずか29歳で結核で死去した。エリーゼの影が付きまとい、強い姑とそれに言いなりの鴎外がいて、「舞姫」でなおエリーゼが鴎外の中にいるといういたたまれない気持ちだろう。息子である於菟もとられてしまった。何とも不幸な人生に見える。西周も石黒(陸軍中将相当)も赤松(海軍中将)に合わせる顔がなかっただろう。

 明治35年40歳の時に、判事荒木博臣の長女志げ(18歳年下)と結婚。観潮楼に住むが、もちろん母峰子、祖母清子、於菟もいる。41歳のとき長女茉莉が生まれた。友人賀古鶴所に宛てた手紙に「美術品のような美しさ」と書くほど志げは美形だったらしい。どうも峰子もその美しさを気に入って話を進めたらしい。この家では峰子には逆らいにくい。鴎外の父も養子のためか影が薄い。

明治37年2月10日に日本はロシアに宣戦布告し、鴎外は出征するにあたり、2月15日に媒酌人をつとめた東大教授岡田和一郎ら計3人の証人、立会人とともに遺言を作成し、公証人役場に届け出た。内容は伏せられ、峰子、於菟により保管された。65年後に於菟が公開した遺書には、財産のすべてを母峰と長男於菟に分与し、志げが再婚するか生家ににもどるまでの生活費を於菟の分から出すということになっていた。ほぼ志げへの離縁状とも言えるとする人もいる。

 この背景には、志げが於菟と同居しつつも話すことがなく、母峰や弟潤三郎との同居の継続を拒み、3人に悪意を持っていたとする。この辺は、坂内による。それは、「舞姫」好き文学少女の22.23の娘には難しいだろう。何しろ、家を取り仕切る60歳前後の峰子、15歳ほどの於菟、30歳代の潤三郎がいる。このような環境の中で、ふつう無事にやっていけるわけがない。

そればかりではない。エリーゼを国に返し、赤松登志子と離縁した鴎外に、峰子は、児玉せきという妾をあてがっている。せきが18,19歳から鴎外は寵愛したという。鴎外は本妻にしようとしたが、峰子が止め、峰子も鴎外の気持ちを考えたのか、外妾とし、その母なみとともにすぐ近所の千駄木内に別居させ、峰が手当てを送り続けたという。(黒岩涙香:弊風一斑畜妾の実例 現代教養文庫ライブラリー)息子の妾の面倒までみるとは峰子の支配力、サービス精神は恐ろしい。鴎外が志げと結婚したあと、児玉せきがどうなったのかはわからない。

児玉せき

 幸田露伴はまた言っている。森の弟の潤三郎が子供の時に、露伴が凧を買って行ってやったが、この家では一切おもちゃは与えない主義だと峰子は言って、それを誰かの子供にやってしまった。友達が森のおふくろにはかなわんと言っていた」という。実際、「サフラン」などを読んでも、津和野の時から、峰子は鴎外が近所の子らと遊ぶ機会をなくしていた。鴎外は子供時代にそういう遊びという現実的経験を与えられなかったのだ。

 しかも、経済は峰子が握っており、峰子が死ぬ1916年まで志げは金銭面で困ったらしい。35歳でようやく志げは解放されたが、鴎外が死んだのがそのわずか6年後の1922年。鴎外の死後、別棟に住む於菟の妻や鴎外の妹小金井喜美子とうまくいかなかったようである。娘の茉莉が2度の離婚を繰り返して出戻ることも悩みだったろう。志げは55歳で腎臓病で1936年に死んでいる。

 鴎外に出逢った女は不幸になったと言わざるを得ない。エリーゼ、赤松登志子、児玉せき、志げ・・・

 女性との関係や結婚生活は誰かと比較するものではないが、鴎外からみると、長井長義はドイツの令嬢と皆に祝福されて結婚し、ともに両国のために貢献し認められた。

 ところが、自分を振り返ってみると、エリーゼを不幸にしてしまった。登志子も、せきも、そして、志げもどうだったか、そればかりでない、自分では収拾をつけることができず、その都度、周囲の人間が骨を折り、どうにかこうにか、恰好をつけてきた。

 長井は日独協会の理事長だから、鴎外が長井とその後会う機会はあったのではないか。だとすれば、その都度、鴎外はエリーゼのことを思い出して悔恨したのではないか。テレーゼの幸福とエリーゼの不幸。

 強い悔恨にさいなまれるのが普通だ。無意識の中にしまい込んでも苦しい。何もかもしかたなかったのだ。運命を受け入れるしかないのだ。峰子も自分の考えに忠実だっただけだ。このようなすべての軋轢の中から文学が生まれたということだ。

 無意識の中に押し込んだものを誰かが白日の下にさらす。そのことは、鴎外にとっての悪評でもあるが、鴎外が呪縛からのがれられる唯一の方法だ。ようやく鴎外は救われるのかもしれない。(2023年1月)