ナイチンゲールの「看護覚え書き」

 看護師の象徴として誰もが思い浮かべるのがナイチンゲールでしょう。フローレンス・ナイチンゲールは、1820年に生まれ、1910年に90歳で亡くなりました。1854年に起こったクリミヤ戦争の際、ロシアと戦う連合軍の看護師として戦地に従軍。野戦病院の総責任者として、衛生環境の改善、院内のシステム改革をしました。なお、この数年間の戦争の相手方ロシアの将校に、レフ・トルストイがいました。ナイチンゲールは成果を上げ、トルストイは戦記を書きました。この戦争は、二人の人生に大きなものを与えたことになります。ナイチンゲールは、戦争終結後イギリスにもどり、看護教育を行いました。主著に「看護覚え書き」があります。

狭き道

 いろいろと重要な言葉をこの本に残しています。まず、はじめに述べているのは、年ごと月ごと、週ごとに進歩を重ねていない限り、自分は退歩していると思って間違いありませんと言います。

 精神科には多くの慢性の患者さんがいます。神戸大学教授の高名な精神科医中井久夫のことを思いだしたのですが、中井は大学医局から関連の精神科病院にまわされました。新しい入院患者はほとんどおらず、患者は慢性の統合失調症の方のみです。そして、医者も毎日同じようなことだけしている。中井はその医者をみて、何て言ったと思いますか? その病院の医者たちは慢性精神科医状態にあるといったわけです。そこで、中井はそう批判するだけではありませんでした。風景構成法というのを開発して慢性精神科医状態になるのをさけて、患者にも自分にも新たな生命を与えたのです。

 普通の人間には、中井のような天才的な精神科医のようなことはできないことです。しかし、慢性精神科医状態の医師は慢性患者に対して、睡眠はとれているのか、食欲はどうかと毎回同じことを聞きます。患者の方でも同じことが聞かれるのを安心して待っているのです。新しいことなどされては対応できずに困ってしまうのです。こう考えると慢性精神科医が必ずしも悪いともいえないでしょう。慢性の患者のために、密かに自己を犠牲にして慢性の精神科医になっているという人もいるかもしれません。

 ナイチンゲールのいうように進歩をし続けること、中井の言うような慢性状態の治療者にならないために、勉強したり、研究をしたり、ともかく我々が新しくあるためには新しい取り組みをしなければならないということでしょう。ただ、たいていの看護師も医師も日常の仕事に忙殺され、決まりきったことをこなすだけで余力がないのが本当のところです。

 いや、医療者だけではないでしょう。ほとんどの労働者は、毎日の仕事を繰り返しているだけで精一杯です。いや、普段と少しだけ違う出来事に対応するのに必死です。乏しい能力を振り絞って、毎日の仕事、わずかな出来事に何とか対応しているのです。特に医療関係者は、向こうから押し寄せてくる難題に対して常に受け身の立場で対応しています。能力に対して仕事量が多ければ、翻弄され続けます。

天国への階段

 そして、ナイチンゲールは言います。「病んだ肉体を丁重に看護するのは、慈悲のある行いです。精神を病んでいる人たちや厄介な患者を、丁重に忍耐強く看護するのは、さらに慈悲のある行いです。けれど、それよりもさらに慈悲に満ちた行為があります。たとえば、自分に対して親切でない人に親切にすること、自分に対して不愉快なふるまいをする人に、礼儀正しく振舞うこと。失礼なことをされたとき、あるいはされたと思った時、また、深く傷つけられたときにも、その場で相手を許すことです」。

 私たちに対して、ほがらかに、思いやりをもって接してくれる人たちにだけ、私たちもそうすればいいのでしょうか?それは誰でもできることでもあります。「私たちに対して悪意あるふるまいをした人に善意をもって接することができれば、それは何という栄誉でしょうか。怒りっぽくて思いやりのない人にこそ、やさしくしましょう」と彼女は言います。

 ナイチンゲールのそのような考えは、素晴らしいことです。しかし、実際精神科の患者からは、残念ながら、ひどいことを言われることがあります。しかし、それは、病状からきていると思われるので、何とか耐えることができます。なぜなら、どんなひどい言葉を患者さんが話しても次回は逆に肯定的に話してくれたりするのです。ですから、ひどい人格攻撃をされた時も、病気に影響もされていることがあると考えられるので割に冷静に対応できます。

 ただ、望ましくない対応をする医療者もいます。例えば、何度も同じことを聞く患者に対して「さっき私はこう言いましたよね」など、患者さんのわずかな非を指摘して対応することなどです。病状が悪い時、患者さんは人を傷つける言葉を吐くことがありますが、他者の言葉には同時に敏感になっていることが多いものです。私の考えでは、言葉によってダメージを受けると、脳のなかで、ミクログリアが炎症を起こし、血液の中の好中球とリンパ球の比率を変化させ、インターロイキン6や1βが放出され、血管内からアルブミンが漏出して、生物学的なダメージを与えるのです。それが続くと不可逆的な陰性症状が進行していきます。言葉や態度は極めて重要なのです。

 病院や診療所は、極端に言うと、あるいはサービス業でもそうですが、職員の言葉でできているのです。長い年月をかけて、総和によって組織ができていくのです。

光と影

 それ以外にも、医療の場面でなくても、わずかな皮肉、非の指摘などが、人間性を打ち崩していきます。そういうことに対して、ひどくダメージを受けてしまうことがあり、上述したように心理的なだけでなく身体的にダメージを与えてしまうのです。そして、病状を悪化させたり、問題行動を引き起こしたりするのです。ですから、人を苦しめない、人に非があったとしても、攻撃的にならないことが望まれます。攻撃では何も解決しないのです。傷つけることは何も生み出さないのです。それを知らず知らず積み重ねることは恐ろしいことです。しかし、多くの人がそれに気づかず繰り返しているのです。

 ただし、現在は、カスタマーハラスメントという言葉が生まれる時代でもあります。特に病状と関係ないご家族とか第3者が職員に対して攻撃的であったり、恫喝のようなことをする場合があります。患者の治療が途切れてはいけないと我慢している職員も多くいます。しかし、その職員にも家庭があり、何らかの重い悩みを抱えているのが普通です。2024年になり、患者が虐待を受けたり、それを見たら通報することという通知が出ています。何か精神科病院ではそういうことが普通にあると思われているのでしょうか。一般病院にはそういう通達は出ていないものと思います。患者を虐待する医師や看護師が精神科に集まっているのでしょうか? しかし、一方、カスタマーハラスメントの方が遭遇する機会が私たちには多いともいえます。そして、その通報窓口を私は知りません。助けてください。

 さて、ナイチンゲールより看護師を含めた当院の職員の方が優れている点があります。彼女が看護師として実際に働いたのは30代後半の2年間だけで、37歳の時に心臓発作を起こし、90歳で亡くなるまで、ベッドの上ですごしたということです。ナイチンゲールほどの特別の実績を残さなくても、どんな人をも傷つけず、長く仕事を続けることは立派なことだと思います。

 ナイチンゲールの大きな成果の一つは、統計学を用いて、野戦病院の死亡率の高さが衛生環境にあるとして、それを改善し、死亡率を著しく低下させて多くの命を救ったということです。単なる白衣の天使ではなくて、冷静な科学者だったのです。これは、地域の復興方法に関数を用いたといわれる二宮金次郎と共通するところでもあります。