新約聖書における人の価値
親鸞は、「善人なおもて往生を遂ぐ、いわんや悪人をや」と言いましたが、このような人間の逆説的な受けとり方は、新約聖書の中にもしばしば表れています。この逆説的な人事評価が象徴的に語られているのは、マタイ19.20 「しかし、先の者は後になり、あとの者は先になるであろう」です。この言葉は福音書の中で繰り返されます。自分が先だと思っている人が後にされる。後だと思っている人が先にされる。一見、割に合わない、不条理なことが起こります。
そして次の章、マタイ 20 は、対価ということを考える上で興味深い物語です。
「天国は、ある家の主人が、自分のぶどう園に労働者を雇うために、夜が明けると同時に、出かけていくようなものである。彼は労働者と1日1デナリの賃金の約束をして、彼らをぶどう園に送った」。
主人は、9時にもう一度市場に行って、何もしていない人を見つけ、ぶどう園で働くように言った。さらに、12時と3時にも出かけて行って同じようにした。さらに 5時に行った時にまだ立っている人がいたので「なぜ、何もしないで一日中ここに立っていたのか」と言うと「だれも私たちを雇ってくれませんから」と答えたので、ぶどう園で働くよう誘った。
夕方になって、ぶどう園の主人は管理人に「最後に来た人々からはじめて順々に最初に来た人々にわたるように賃金を払いなさい」と言います。5時に来た人から1デナリずつもらいました。最初に来た人も1デナリであったので、その人は不平を言い、「この最後の者たちは1時間しか働かなかったのに、1日中労苦と暑さを辛抱した私たちと同じ扱いをするのですか」と言った。これは、普通の感覚から見ればもっともなことです。
主人は「私は不正をしていない。あなたと私は1デナリの約束をしたではないか」。「私はこの最後の者にもあなたと同様に払ってやりたいのだ。自分の物を自分の好きなようにするのは当たり前ではないか。それともわたしが気前良くしているので、ねたましく思うのか」。「このように、あとの者は先になり、先のものはあとになるであろう」。
この主人の言う最後の者は、雇われなかった者です。選ばれなかった者です。障害があったのか、優秀でなかったのか、低く評価されたのかもしれません。生存競争の中で最後の者だったかもしれません。
ラスキン(John Ruskin 1819-1900) イギリスの社会思想家は、ガンジーにも強い影響を与えましたが、「この最後の者にも」という論文を書き、以下のように述べています。「私は私の医者を選び、私の僧侶も選ぶ。ぜひ君の煉瓦工も選択なさるがよい。『選ばれる』ということ、それが上手な職人の当然の報酬なのだ。あらゆる労働に関する自然で正当な制度は、一定の賃金率が支払われる代わりに、上手な職人は雇われるが、下手な職人は雇われないということだ。これに反して、虚偽、不自然かつ破壊的な制度は、下手な職人が半分の給与でその仕事を提供して、上手な職人にとって代わり、あるいは競争によって上手な職人を余儀なく不十分な金額で働かせることが許されるような場合に行われるのである」。
この論文の最後に、「やがて時いたり、王国が開け、キリストのパンの賜物と平和の遺産が、『この最後の者にもなんじ同様』与えられるであろうその日まで。そのときには、地上の悪人と疲れた者の相反目した群れにも、狭い家庭の和解よりもなお神聖な和解があるであろうし、また、悪人は悩みをまぬかれないとしても、悩ますことをやめ、疲れた者はやすらぎを得るような、平穏な経済があるだろう」と述べている。
新約聖書 ルカ15に、父親と2人の息子の話があります。弟が財産の半分をくださいと言います。父親は兄弟 2人に身代を分けました。弟は自分の財産を全部まとめて遠いところに行き、そこで放蕩に身を持ち崩して財産を使い果たして、食べることにも窮するようになりました。その地方のある住民に身を寄せたところ、その人は彼に豚を飼わせたのですが、彼は、豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいと思うほどでした。何もくれる人もなく絶望感の中で、父のことを思い出しました。思い切って、父の元にもどり、罪を認めて、「息子と呼ばれる資格はありません。雇人と同じように扱ってください」と言います。
しかし、父は、最上の着物を着せ、指輪をはめ、はきものを用意し、こえた子牛をほふって祝宴を開きました。兄は父に向って「わたしは何年間もあなたに仕えて、一度でもあなたの言いつけにそむいたことはなかったのに、友達と楽しむために子山羊一匹も下さったことがありません。それなのに、遊女と一緒になってあなたの身代を食いつぶしたこのあなたの子が帰ってくると、そのために肥えた子牛をほふりなさいました」と不平を言います。この兄の言葉はもっともなことです。
すると父は言いました。「あなたはいつもわたしと一緒にいるし、わたしのものは全部あなたのものだ。しかし、あなたの弟は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから、喜び祝うのは当たり前である」。
こうして、先の者があとになり、あとの者が先になったのです。
マタイ5.45には、「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」というのがあります。神は、成果でもって差配しないということです。
われわれがあくせくしているのは、少しでも成果を出そうとか、効率を良くしようとか、人に勝ろうなどと考えているからです。善人になり、悪いことはしないようにしようと考えます。それは悪い事ではありません。しかし、人間の一番大事なところは、成果によって判断されるものではありません。
良いことをしたとしてもそれに値する報酬を必ずしも得られるわけではありません。こんなことをしたのだから、こういう報酬があって当然だというのは思い上がりなのでしょう。結果を見ないで奉仕することに価値があります。報われなくてもいい、いや報われない方がいい。
成果が出せない自分をだめだと思わないこと、成果を出せている自分が偉いのだと思わないこと。成果を出している人間が高い報酬をもらうのは現代では当然なのでしょうが、ただそれだけのことです。一番大切なことではありません。
すごく成果を出せる人は、認められてもいいし、仮に認められなくても、成果の出せない人の分まで喜んで働くというのはどうでしょう。不平等ですか? 損ですか? 割に合わないですか? お人好しすぎますか? 逆に成果が出せない人も良く働く人に対して卑屈にならずにありがたく喜んで受け取るのはどうでしょうか。
お坊さんの托鉢もそうです。お坊さんは働かない。一生懸命働いている人から、いただくのです。しかも、喜捨する人に功徳を積む機会を与えているのです。だから、ありがとうと言わないそうです。
現在、自分があとになってると思っている人(自分に生きる価値がないと思っている人、負けていると思う人、毎日辛い思いをしている人)の方が神から見れば価値があるのかもしれません。心配したり、嘆いたりせずに、不平も持たず、受け止めればよいということなのかもしれません。
※ なお私はキリスト教徒ではありません。独自の解釈であることを付記します。(2024年9月)