時間の生まれる場所
仏教の瞑想法で、ヴィパッサナー瞑想というのがあるそうです。自分が今していることを頭の中で唱えるというものです。たとえば、「今、右手を上げている」などと頭の中での実況中継するものであり、効果の高い修行法だそうです。
統合失調症の症状に、自分の行動を注釈する、説明する幻聴という症状があります。この幻聴の場合、他が注釈するのです。不思議な幻聴です。一方、この瞑想は自らが注釈します。
この瞑想の意味を考えてみると、おそらく、今を生きるということの訓練ではないでしょうか。自分の行動を実況中継すれば、その時は、今に生きることになります。人は、今を生きていると思っても容易に意識は散漫となり、未来に生きていたり、過去に生きていたりします。あるいは、とめどない空想や妄想の中にいます。
だから、毎日歩く道の左右にある建物や景色のこともよく覚えていません。なかなか現在に生きられないのです。小学生の頃は日々が新しい体験であり、時は濃厚でした。だから、通学路の景観は順を追って浮かべることができます。
現在に生きていないとき、時は死んでいます。著名な精神科医木村敏は、「祭りの前」が統合失調症的、「祭りの後」が躁うつ病的としました。どちらにしても今がないのです。
それだけ、現実は生きにくい、雑多な出来事の中に翻弄されています。自分を見失っています。本来注意を向けるべきことに集中できず「早く仕事を片付けなければならない」などという観念に支配されています。
普段症状のことばかりが気になっている神経症の人が戦争などの危機的な場面に直面すると、むしろ健常者よりてきぱきと行動できることがあります。これは、毎日困難な神経症症状の中に囚われて生活している人が、現実の戦争の危機的状況にぶつかり、強制的に自分を取り戻されるということかもしれません。
トルストイもガンジーも森鴎外も戦争に行きました。トルストイ、鴎外とも自分一人だけ軍服を着ている集合写真があります。彼らは、戦争という緊張感のある場面を好んだのは、強烈な生の実感を求めたのかもしれません。トルストイの下にいるのは、大御所ツルゲーネフだそうです。
なぜ、この2大作家(トルストイ、鴎外)が軍服を着ているのか。着なくてもいいところで。軍服は強さの象徴でしょう。つまり、感受性の豊かな作家は、写真に登場する人物との人間関係の中で、ひょっとすると気後れし、それを克服するために、無意識のうちに強さの象徴である軍服を利用したのかもしれません。トルストイは軍服でしかも腕組みをしておりさらに強さを強調しています。ツルゲーネフをはじめとする文壇の中で、若輩であるが負けるわけにいかないということでしょうか。
鴎外は軍服の上にさらに軍杖も持っています。これもまた、いずれも強さの象徴でしょう。どうして、これだけ、自らの強さを強調したのか。トルストイの場合は、作家集団の中で新人作家だったことがあげられます。鴎外はすでに有名作家だし、陸軍少将。でも、権力者の中ではまだ、足りないということを感じたのでしょうか。
話を元に戻しましょう。危険な登山もどうでしょうか。普段の日々は死んでいるように感じていても、究極の冒険の中だけで生を実感できる。強制的に今に生きるということができます。だから、ある種の人たちに好まれるということがあります。強烈な生命体験の実感はやめられなくなるのかもしれません。
漫然と毎日同じことをやって生活している。それは意味がないのでしょうか。しかし、多くの人は毎日平凡で記憶に残らない生活をしています。何で記憶にないかと言えば、生きた時間を過ごしていないからです。一方、記憶は感情とともに固定されます。時間はないということになります。時間は今に生きている時に生まれるのかもしれません。皮肉なことに、ウクライナで毎日、戦争の脅威にさらされている人には、1日1日が忘れられないでしょう。苦しくても時は生きています。災害に遭遇した場合も同じでしょう。
第2次大戦の沖縄戦でジャングルの中を水を求めながら米軍から逃げた当時少女の話は、実に鮮明かつ緻密な記憶として語られます。
危険なこと、今までやったことのないこと、それらは現実へと向かわせることとなり、日常とは異なります。日常が記憶に残らないのに対して、強烈に記憶にも残ります。
自分が癌だとわかり、余命半年と言われた場合。こういうときも時間は生まれ、やはり、強制的に今に生きることができやすくなると考えられます。
千日間、何キロ、何十キロと毎日休まず歩く。歩けなければ、首を吊る、そのロープを毎日持って歩く。その比叡山の千日回峰行、いかなるアクシデントにも対応しなければならない。それを2回満行した酒井雄哉は、自分が生きている実感がそれ以外では得られなかったのかもしれません。おそらく、この日々の中、毎日が輝いて生きている時間でしょう。同じことの繰り返しなのに新しい。生きた時間の体験は、内面を成熟させます。歩いただけなのに、人の悩みに対して、明確に答えることのできる力を酒井が獲得しているのが彼の書籍から読み取ることができます。
ガンジーがイギリス植民政府の塩の専売に反対して、ダーンディ海岸までの約400kmを歩き、海岸で塩を手でつかんだ塩の行進。その時、その一瞬は彼にとってだけではなく、大げさに言えば人類にとって永遠になったといえます。世界に時間は生まれ、時は超越されたのです。ガンジーは再び獄に入れられることを覚悟していました。
先日、知人の関係で、浄土真宗の寺に行ったら、なんと下のガンジーの言葉が飾ってありました。
こうして書いていると、患者さんがしばしばするリストカットも生きた時間を生み出すのかもしれません。もちろん、推奨するわけではありません。そうまでしても、生きた時間を希求しているということであり、また、生きた時間を過ごすことは救いをもたらすのでしょう。それ以外に生きた時間を過ごせる方法のない悲しさがあります。ほかに生きた時間が体験できるなら、リストカットをする必要はありません。
今まで挙げてきた人は偉人ばかりです。凡人にはない才能を有し、凡人にできない稀有な体験ができます。しかし、問題はいかにして凡夫がよく生きるかということです。
しかし、凡夫の日常は毎日こなさなくてはいけない仕事にいつも追われています。平凡でルーチンな仕事をこなすだけで精一杯というところです。この平凡な日常をどうしたら、より濃厚な生きた時間にできるのか。それは一般論で語れることではなく、きわめて個人的なことかもしれません。(2024年11月)