鷹山、金次郎、方谷 4 考え方

鷹山の場合

 鷹山の師であった細井平洲は、朱子学派でも陽明学派でもない折衷学派であり、実践を重視しました。他者に対する思いやりとか尊重ということも重視しました。それは、金次郎でも方谷でも同じです。鷹山は、平洲を心から慕い大切にしましたが、同様に民を思いやり、老人を敬い、子供を慈しみました。

 文武を怠慢なく努めること、藩主は民の父母という心構え、質素倹約をすることを忘れないことを鷹山は氏神様に誓ったということです。財政再建のために質素倹約は当然のことですが、大名とか、地位の高い者の豪奢な生活が特に問題なことに気づいていました。

具体的には、参勤行列の簡素化(数百人を3分の1にした)、木綿の着用、年末年始を除き一汁一菜、50人いた奥女中を9人に減らすなどが、江戸勤務の者たちに伝えられました。自分の収入もかなり減らして、以後、増やさなかったそうです。まず自分からやらざるを得ません。もちろん、重臣たちの中には不満を言うものが多く出ました。改革者の宿命かもしれません。理解されないのが普通です。

 はじめて、米沢に到着したのが、1769年10月27日です。まず、謙信の霊をまつる御堂に参詣したといいます。祖先を敬い、信心深いことがわかります。

 また、鷹山は、家臣の中でも下級家臣や足軽まで声をかけることを重定に認めてもらいました。通常は、上級武士としか関わらなかったのです。

 さて、倹約に努めても、収入の9割が人件費だったそうです。これでは、設備投資も何もできたものではありませんし、借金の返済もできません。破綻するのは目に見えています。このような状況にあっても、重定は見て見ぬふりをしていたも同然です。考えてもどうにもならない、そのうち、何とかなるだろうと思考停止していたのかもしれません。

 病院の人件費の比率も同じようなもので、収入のうち、人件費が6割なのか7割なのかでたいへんなところです。もちろん、人件費割合が高ければ、投資もできないし、危険でもあります。かといって給与を下げたら人もいなくなります。この二極の差配、統合がいつも課題となります。しかし、そこからより新しいものが生まれてくる可能性があります。

金次郎の場合

二宮金次郎の場合は、改革の方法はもっと明確です。金次郎は、一般化したかったのだと思います。自分のためとか小田原藩のためではなく、日本のどこでも、復興のためにはどのようなポイントを押さえればうまくいくか、効率的にできるかと考えたのではないでしょうか。しかも金次郎は、自分の体験からどこでも適用できる法則を見つけ、それを言葉にして、明確化し、人に伝えました。

 金次郎の立て直しの方法を報徳仕法ともいいますが、いずれの仕法でも、領主に「分度」の設定を要求したそうです。当時、服部家は、1200石とされていましたが、実際には、400俵の収入しかなく、領主やその周囲は、それだけの生活に抑えるべきだ、その数字を明確にしたわけです。生活の水準を下げるわけですから大変です。現代の日本では、一億総中流社会から、中間層の収入低下があり、一方、超お金持ちはますます資産を増やしたそうです。

 江戸時代のその当時は、藩主やその周囲は、経済的に優遇され、歯止めがかからないような格差社会だったと思われます。実際に豊かならいいのですが、収入が増えないのに、支出が増えていたと考えられます。ある社会において、自分の給与を決められる人がいて、その自分の給与を円満に上げる方法はなんでしょう。それは、周囲の人の給与を上げることです。これでは、格差社会は広がるばかりです。さまざまな問題を引き起こします。藩主やその周囲の上級武士の豪奢な生活を維持するために、農民が無理に働いているということになります。また、藩は商人から多額の金を借りていました。江戸幕府は、地方の大名の力をそぐために、参勤交代などで、経済力を減らしたわけです。金は商人に回りました。

金次郎は、このような構造を見抜いて、藩主やその周囲の倹約が特に大切だとしたのですが、小田原藩などでは、「野州理屈」と揶揄され、長い抗争を経た上で報徳仕法は廃止され、金次郎は領内から追放されたと正伝にはあります。ひどい話です。

 「イエスは生まれ故郷のナザレではほとんど奇跡らしい奇跡を行わなかった」(マルコ6:5)さらに、「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである」とされています。「ヨゼフの子だろ」と言われ、殺されそうになりますが、金次郎の場合も出身地で否定されたのは同じです。また、金次郎は、このような句を挙げています。「聖人聖人というは誰がことと思いしに、おらが隣の丘(きゅう、孔子)のことか」また、金次郎は、「私が昔、鳩ケ谷宿を通ったときに、その宿には富士講で有名な三志という人がいるので、三志といってたずねたが誰も知る人がいない。よくよく問いたずねたところ『それは横町の手習い師匠の庄兵衛のことだろう』と言われたことがある、これと同じだ」と言っています。

 さて、金次郎の方法には、推譲というのもあり、人に譲ることもありますが、将来の自分に譲るということでもあります。松下幸之助の唱えたダム式経営と似ているかもしれません。そのほか、勤労ということがあるわけです。偉人の活動量は概して多いと言えるでしょう。ピカソだって驚くほど多産ですし・・・。

金次郎は、やがて善悪はないという考えに至っていますが、これも偉人に共通する言葉です・

 また、金次郎は、
  飯と汁 木綿着物ぞ身を助く その余はわれをせめるのみなり
                           と歌っています。

 木綿の件は、鷹山と同じですね。ガンジーも木綿の糸紬を推奨しました。

方谷の場合

 32歳の方谷は、佐藤一斎の元から離れ、松山藩にもどり、藩校有終館の学頭となりました。そのころの天保の大飢饉は全国的に多数の死者を出しました。東北の大凶作による死者は4万5千人にのぼりました。東日本大震災よりはるかに大きな災害です。しかも、コメの生産者である農民がまず餓死してしまいます。金次郎は夏にかじったナスが秋ナスの味がすると言って

 方谷が藩政に関わるようになり、行ったのは、徹底した農民保護政策であり、新田開拓を奨励し、新田で取れたコメには租税をかけなかったといいます。この点は、金次郎とほとんど同じ政策です。

 また、方谷は藩の許可を得て、私邸で私塾「牛麓舎」を開き、教育をすすめることとしました。鷹山がわざわざ平洲を招いて、教育をすすめたのと同じです。子弟には三島中州、矢吹久次郎などの将来の大器がいたそうです。

このような中で、藩主となる板倉勝静(かつきよ、松平定信の孫、板倉家に養子に入った)に、方谷は厳しい教育をします。政治の姿勢を正し、綱紀を整えることが、国を救うと考え、教えました。方谷は農民出身ですし、特権階級である武士に対する複雑な感情があり、このような問題を勝静につきつけたようです。それを受け止めることのできた勝静は、それだけの才能がありました。方谷の教育の成果だけではないでしょう。

 武士は偶然武士の家に生まれたことで、無為徒食の武士たちが豊民から年貢を搾り取り、役人は役得としての賄賂を懐にします。しかも、村を巡察する時は、農民からの酒馳走の接待を当然のように受けます。これが問題だとわかる為政者はなかなかいません。鷹山は初めから殿様だったのにこういう矛盾がわかりました。方谷は、農民出身でしたのでわかりましたし、金次郎もそうです。

 備中松山藩は、窮乏のどん底で、大阪商人からの借財が大きくなっていました。十万両です。松山藩の年収は約二万両しかなく、しかもほとんど必要経費でなくなってしまうのでどうにもなりません。勝静は、藩政改革を方谷に託しました。引退しようとしていた方谷を必死で説得して元締役になってもらったが、農民出身の方谷が門閥でかためられた上級武士に受け入れられるはずがありません。金次郎と同じです。金次郎の藩主大久保忠真は、金次郎を受け入れさせるために、桜町の復興を成就させることを金次郎にまかせるという方法をとりました。一方、勝静は気にしないで衝撃人事を行いました。ただ、「方谷の言うことは、私の言うことだ」とバックアップしたわけです。重定はほとんど無能のように見えるのですが、やはり、ここぞというところで、権威を用いて鷹山を援助しています。

 経済的な側面をみると、3人の偉人とも、いずれも貢献度と比較して個人の収入や資産は少ないといえます。鷹山は自分の収入を減らしました。その結果、上級家臣の給与を抑えられたということになります。金次郎は、失踪した時、なぜか70両の大金を持って行ったのですが、極めて個人収入は少なかったでしょう。方谷も同じで、3人とも自分の努力で藩にもたらした経済効果よりずっと少ない個人収入だったわけです。経済的な面をみると、割に合わないわけです。自分でそうしたと言ってもいいでしょう。藩の収益改善には効果があります。

病院裏から出た黒曜石の矢じり 長野県産らしい