スピノザから学ぶ自由な生き方 5

 エチカ 第4部 「人間の隷従あるいは感情の力について」に行きましょう。ただ、かいつまんで読んでみるだけです。

 スピノザはこのように言います。感情に支配される人間は、自分を支配できずに、運命の力に自分をゆだねてしまっている。価値あることが分かりながら、外からの強制によって、より劣るものに追従してしまうことがある。善とは、われわれの念頭にある人間本性の典型に、ますます接近していくための手段として、われわれが確知しているもののことである。

 感情に駆られて行動してしまうことをスピノザは望ましくないとします。怒りに任せて暴力をしてしまうとか、妬みがあるために意地悪をするとかでしょうか。しかし、感情はなかなかコントロールが難しいとスピノザは言います。

 受動感情は、感情以外の人間の活動、あるいは能力を凌駕することができる。それほどに感情は頑強に人間にとりついている。そして、感情は、それとは反対の、しかもその感情よりもっと強力な感情によらなければ抑えることも除去することもできない

 理性は、自然に反するようないかなるものも要求しない。したがって理性が各人に要求することは、各人が自分自身を愛すること、自分自身のためにほんとうに役立つような有益な者をもとめること、また人間をより大きな完全性へ真に導いていくものを欲求すること、要するに端的にいえば、各人が自分のすべてを尽くして自分の存在を維持しようと努力することを要求しているのである。このことは、いうまでもなく、全体がその部分より大であるというのと同じように、必然的に真である。

 スピノザは理性というものの存在を信じていますし、最高の知的な能力だとしているようです。しかし、ショーペンハウアーは人間の理性というものを信用していないような記述があるようです。

 徳の基礎は、自分に固有な存在を維持しようとする努力そのものである。また、幸福は、人間が各自の存在を保持しうる能力の中にある。第2に、徳はそれ自身のためにもとめられるべきものであって、われわれにとって徳以上に価値のあるものは見いだせない。自分自身を滅ぼすような人は、心の無力な人であって、このような人は自己の本性と矛盾する外部の原因によって徹底的に打ちのめされている人である。

 理性に従って生きる人間は、自分以外の人たちが欲しないようなものを、自分たちのために努力してもとめることはない。このことから、彼らこそ公正で、信頼しうる、しかも気品ある人々であるということがいえる。

 スピノザは、人間が理性に従って生きるという可能性を信じており、そういう人はいるのだとしています。そして、もっとも信頼できるとしています。だれから信じられるのでしょう。やはり、同様に理性を持った人からは信用されるでしょう。でも、そうでない人はどうなんでしょう。理性をあまり持たない人からも信用されるのでしょう。その人間関係はどのようになるのでしょう。

 各個人が各自の利益を追求すればするだけ、いいかえれば、各自の存在を維持しようと努力し、しかもそれが可能であればあるだけ、かれは大きな特に恵まれている。また、反対に、各個人が各自の利益を、いいかえれば、自己の存在を維持することをおこたるならば、それだけ彼は無力なのである。

 各自の利益の追求とは、どういうことでしょうか。生命の維持もあるだろうし、自分の才能を開花させることもあるかもしれないし、経済的な利益の追求だってあるということでしょうか。

 スピノザは、徳とは、人間が自分の存在に固執しようとする努力そのものによって規定されるような人の能力そのものであると繰り返します。

 人間の存在に固執というのは生きるということでしょうか。しかし、これならば誰でもやっていて徳にはならない気がします。自分の独特な個別的な存在にということでしょうか。どうしてもっと分かりやすく書いてくれないのですか?

 外部の原因か,自分の本性に対立する原因にしいられて,食物を拒否したり,あるいは自分自身を滅ぼすようなことをするのである。この自滅行為として,スピノザは,暴君ネロの命令で自殺に至ったローマ時代の哲人セネカを挙げている。そして,人間は自分の本性からはそのようにはならないという。

 人間の本性とは、やはりよりよく生きるということでしょうか。拒食とか自傷とか自殺とかは、本性に対立する原因、たとえば精神病とかによるということでしょうか。それだけでなく社会的に追い込まれたりいて自殺することを言っています。そして、本来人間は、そういった外部の原因がない限りは、そういった自分の生に反することは起こらないといっています。外部と言っても精神病のようなことも入るということでしょう。

 完全に特にしたがって行為するということは,我々の場合,理性の導きによって行為し,生き,また,自分の存在を維持すること,しかもそのことを自分本来の利益をもとめるという原則に従ってなそうとすることである。

 わかるような気もするけれど、抽象的です。もう少し具体的に言ってもらわないと。自己は出てきますけど、他者は出てきませんね。

 われわれが理性にしたがって努力することは,すべて認識するということである。精神が理性を用いる限り,精神は認識に役立つもの以外は自分にとって有益とは判断しない。精神は理性的に思惟している限り,認識することだけを求める。認識に役立つものが善であり,認識を邪魔だてするものが悪である。精神にとってもっとも善いことは,神の認識である。そして精神の最高の徳は,神を認識することである。絶対に無限な存在者の認識である。

 神の認識とか、無限の存在者の認識、自然の認識などを最高の事としています。神とはどういうものかとか、宇宙の法則はどういうものか、理解していくということでしょうか。

 人間は,理性の導きに従って生活しているとき,完全に自分の本性の法則に従って活動する。しかもそのような時に限り,他人の本性と常に必然的に一致するのである。すべての人間は自分にとって有益なものをもっとも強く要求するとき,彼らは互いにもっとも有益である。各人が自分にとって有益なものをより強く要求すればするだけ,また自分自身を維持しようと努力すればするだけ,ますます徳に恵まれる。

 ここで、他人が出てきました。スピノザは、他人とうまくやるためには、他人中心に考えて奉仕しろということでなく、自分が理性に従って生活し、自分の本性の法則に従って活動すればいいとしています。しかも、そのような時だけ、他人ともうまくいくと言います。しかし、この他人とは、やはり理性に従って生きている人間のことのように読み取れます。

 ところが,人間が理性の働きに従って生活することは稀である。むしろ彼らの間では妬み合いが絶えないし,互いに不和をまきおこすのが現状である。風刺家には彼らのやりたいだけ思う存分に人間的なことをあざ笑わせるのがよかろうし,また神学者にはその人間的なことを呪わせておくのもよかろう。また人間嫌いな者にはできるだけ,未開の粗野な生活を称賛させ,そして人間を侮蔑し,野獣をほめたたえさせるのがよかろう。ところが,彼らは,自分たちの必需品を人間同士の協力によってきわめて容易に自分たちのために用意すること,そして互いに力を合わせること,これがなければ,いたるところから脅威となって迫る危険をさけることができないという事実を経験すればわかるであろう。

 スピノザは、ただ、理想を語っているのでなく、現実をしっかり見ています。実際、政治の世界でも何の世界でも、他人を批判することのなんて多いことか、ワクチンにしても、失言に対しても断罪しすぎではないでしょうか。もっと寛容であることが必要な気がします。批判することによって、自分はもっと高い見識を持っているのだと思うことができるのでしょうか。正義の味方だと思うのでしょうか。それに同調する人がいるのも恐ろしいことです。

徳に従っている者にとって,もっとも善いものが必ずしもすべての人に共通でないとしたらどうなるであろうかという問いに対して,スピノザは,人間にとってもっとも善いものはすべての人に共通であるのは,理性そのものの本性から生じるといいます。

 スピノザは長い間の思索によって、肯定的に世界をとらえられるようになったのは本当にすごいことです。一抹の不信もありません。

 ただ感情だけで、自分自身の愛するものを他の人々も愛するようにさせたり、またそのような人々を自分の思うように生活させようと努力する者は、たんに潜在衝動に支配されて行動している者である。

 スピノザも困ったのかもしれない。関心の対象とか、好き嫌い、気質とか、素質など人によって異なるのですから。でも、自分の関心を持つものをついつい勧めてしまうことがあります。一応、無理にでも付き合ってみるということもあるかもしれません。それで、自分の新たな素質に気付くこともあるのかもしれません。

 自分以外の人を理性によって導こうと努力する人は、潜在衝動に左右されることなく、人間らしく寛容の心をもって行動する。また、彼の心の中は最高の自己同一性を保っている。

 エリクソンという心理学者が、アイデンティティとか同一性とか、主体性とかについて論じたのは、1950年前後のようです。早いですね。スピノザは。時代を超えています。

 真の徳とは理性の導きによって生活することにほかならない。このようなことから無力は、人間が自分の外部のものによって導かれるのを甘受し、そして外部のものの一般的な状態が要求することをなすように、外部のものから決定されるときであって、それ自身で考えられた自分自身の本性が要求するものによって決定される場合ではない。

 外部のものの中には、自分の思い込みとか、決めつけとか、損得勘定とか、固定化された社会常識とか、親から繰り返し言われたこととかもあるかもしれません。自分自身の本性が要求するものとは何でしょうか。私の場合、こうして書いていることがその一つなのでしょうか。しかし、みんなに受け入れられるようにとかの目的に突き動かされれば本性を失うということになるのでしょう。

もし、人間が理性の導きによって生活していたら、だれでも他の人にまったく危害を与えることなしに、このような自分自身の権利を享受することができたであろう。しかし、人間は、人間的能力と徳をはるかに超えた強い感情に隷従しているのであるから、しばしば異なった方へ引き回される。すなわち互いに敵対的になる。そのようなときこそ、互いに援助しあうことが彼らには必要であるのに。感情を抑えるのに無力な理性でなく、刑罰の威嚇によって強固にしなければならない。

 感情は、理性によってはコントロールできないといいます。もっと強い感情と言ってもないでしょう。スピノザは法律、規則、刑罰でよってしか抑えられないといっているのでしょうか。

 嫉妬、嘲笑い、軽蔑、怒り、復讐、その他憎しみのもとに総括されるものは悪である。理性の導きによって生活する人は、できるだけ自分に対する他人の憎しみや怒り、軽蔑などを、逆に愛によって、あるいは寛容の心によってむくいようと努力する。不法が加えられ、それに対して逆恨みによって復讐しようと欲する人は、たしかにみじめな生活を送る者である。ところが反対に憎しみを愛によって、あえて克服しようとつとめるものは、たしかに喜びと平安にささえられて戦い、大勢に抵抗するのにただ一人の人間に対抗するのと同じようにやすやすと抗戦し、そしてほとんど僥倖の助けを必要としない。

 無条件に悪ということでしょう。つまり、軽蔑されて当然のような人を軽蔑するのは悪だということです。大石内蔵助も悪は悪ということでしょう。復讐しないでいることは悪だという通念があるように思います。賛美されることもありますね。かたき討ちとか。

 買いかぶりは、買いかぶられる人間をかんたんに傲慢にしてしまう。

 買いかぶられて、自分は単に買いかぶられているだけだと思えるのは希少なことでしょう。見くびられたときに、単に見くびられただけだと思えるのと同じように。

 あわれみは、悲しみであり、それ自体で悪であり、無用のものである。われわれは、善いことをただ理性の命令によってしか行うことはできない。

 カントでいえば、定言命令ということでしょうか。感情にかられておこなうのではなくて。スピノザ、アムステルダム北緯52度、カント、ケーニヒスブルク北緯54度。

 満足は理性から生じ、この理性から生じる満足だけが、存在しうる最高のものである。満足は、人間が自分自身や自分の活動力を観想するということから生ずる喜びである。人間の真の活動力あるいは人間の真の徳は、理性そのものである。

 スピノザは、生前、ユダヤ人社会から追放され、警戒され、狙われることもあって、本を出版することもできず、経済的にもまるで豊かではなかったし、妻も子供もいませんでした。それでも生きていけたのは、理性から生じる満足があったからでしょう。それと、多くはなかったと思いますが、スピノザを理解する人々がいたからでしょう。

 傲慢な人間は、たいこもちやへつらう人が周りにいるのを好む。だが、心の寛容な人がそばにいるのを嫌う。彼らの正当な価値を感じ取る寛容な人が身近に現れるのをはねつける。傲慢とは、自分を自分以外の人よりも優れたものと思うような、誤った意見から生じてくる喜びであると定義される。そして徳のゆえにもっとも多く賞賛される人々を、彼ははげしく憎み、そのような憎しみは、愛や善意によっても抑えることはできない。

 スピノザの言い方だと、寛容な人は傲慢な人の正当な価値を感じ取れるらしい。本当でしょうか。どういう関係があるのか? スピノザは、愛や善意が状況を改善するのに有効であると他の場所でいいますが、限界もあるということでしょうか。妙に現実的な感じがします。傲慢には愛も及ばないということでいいのでしょうか。

 感情に従う人は、自分の意識のまったく知らないことを実行しているが、理性に導かれる人は、自分自身のいかなるものの流儀にも従うことなく、彼が人生において根本的に重要なものとして認知していることだけを実行し、また、そのために重要なことを徹底的に求める。このような観点から私は、前者を奴隷、後者を自由な人間と呼ぶのである。

 スピノザは、哲学という彼にとって重要なものを追求したのでしょう。感情に従い、盲目的に生きているのは、感情の奴隷ということでしょうか。理性に生きるとは、意識的に生きるということでしょうか。

 かくて人生でもっとも有益なものは、知性あるいは理性をできるだけ完成させることである。そして、この点においてのみ人間の最高の幸福あるいは至福がある。至福とは、神の直観的な認識から生じる心の安らぎ以外の何物でもない。他方、知性を完成させるとは、神と神の属性、さらに神の本性の必然性そのものから帰結される諸活動を認識することである。それゆえ、理性によって導かれる人間究極の目的、言い換えれば最高の欲望は、彼がこの欲望に基づいてそれ以外のあらゆる欲望を統御しようとする欲望であり、彼自身と彼の知的認識の対象となるすべてのものを、十全に把握するように彼を駆り立てる欲望である。

 けっきょく、神とか自然とかに対する認識ということでしょう。そして、それを求めようとする欲望は、最高の欲望であって、すべての欲望を凌駕するということでしょう。

 理性に導かれる人間以上に有益なものは見いだせない。人を教育することによって、ついには彼らが彼らの理性の指図にもとづいて生活するようにさせる以上に素晴らしい手段はない。

 でも、本当に人と人の理性は一致するのでしょうか。スピノザは、それが理性の性質だというのでしょうが、他人の理性は理性でないと思うことが誰にもあるはずです。それは本当の理性ではないのですか?

 人間が妬みや何らかの憎しみの感情にかられているとき、そのときにかぎり彼らは、互いに対立的である。ところが、人の心を征服するのは、けっして武力ではなく、愛と寛容である。

 本当に、愛と寛容は万能なのでしょうか? さらに、具体的にはどいうことでしょうか? そして、寛容に限度というものはないのでしょうか?

しかし、人間が理性の指図にしたがって生活することはまれであり、しばしば、妬み深く、同情に傾くよりは復讐に走る。だから、自分自身を維持するためには、特別な精神の能力が必要である。ところが反対に、人を非難し、彼らの欠陥をさげすみ、人の心を破壊してしまうことに通暁している人々は、不快なものである。

 たとえ、相手に落ち度があっても、迷惑を被っても、悪口を言うことは良くないですよね。つまり、条件なしで、望ましくないことは望ましくないということです。

 人に向けられるその他の悲しみの感情は、正義、公平、誠実,敬虔、宗教心に対立する。憤りは公平の外観を示しているように見えるが、もし誰もが他人の行為について審判を下すことができ、自分や他人の権利の正当性を請求することが許されるならば、人間は法律のない世界で生きることになる。

 説教することはたいていは良くないことではないでしょうか? なるべく避けたいものです。何も解決できないでしょうし。

 われわれは、必然的なもの以外には何も要求することができないし、また一般に、真なるもののうちにしか心の平和をえることはできないからである。われわれがこのことを正しく認識するならば、それだけでわれわれのよりすぐれた部分の努力は、全自然の秩序と一致するのである。

 全自然の秩序と一致する、心の欲するところに従いて矩をこえず。間違いなし。

2021年5月25日