自己実現的生き方と自他実現的生き方(その2)

 その1でお示ししましたが、人間の欲求の中で最上位にあるとされるのは、マズローによれば自己実現です。一方、自己実現は結局競争という形を取り、強いものが自己実現の先頭に立つというイメージがあります。イーロン・マスクのように。

 自己実現が競争の側面を持つことの証拠に、本屋に行けば、効率よく仕事する方法、自律神経を整えるやり方、年をとっても元気を保つ方法、副業で稼ぐ方法などの書物があふれ、薬局に行けば、もっと働けるエネジードリンク、活力を生むサプリメント、美しくなるための化粧品が並びます。それらは、一歩でも他者に先んじて、優位に立ちたいとう願望の現れです。その先によりよい生き方や優れた自己実現があると思うからです。そのように人はある方向へと無意識のうちに強制されています。

光と影

 良く生きるということも競争なのでしょうか。良く生きることを追求する学問が哲学なのかもしれません。

 カントは死ぬ間際に、「これでよし(Es ist gut)」と言ったそうです。「自分の人生はこれでよし」、「自分の自己実現はこれでよし」ということなのでしょうが、そんなことを言えるのはほんの一握りの人でしょう。自分はよく生きているのかどうか、気にしながら一生を終える、それが人間でしょうし、ひょっとしたら哲学者も同じかもしれません。

 西郷隆盛は最後に「もう、ここらでよか」といって自害したそうですが、諦めとか、妥協とか、不十分さというニュアンスがあってより身近な感じがします。

 いずれにせよ、人には、他者よりよい人生を送りたいという願望があります。 しかし、「よく生きる」ことにこだわりすぎると自己中心的になってしまうこともあります。

 ラッセルは、外的な物事に目を向けるようになってから死を考えることをやめたと語っています。ラッセルにとっては数学への関心だったのですが。いつのまにか、よく生きなければならない自分のことを忘れていくことになります。

 ラッセルは、自分が外的なことに関心を持ったので、健康になったというニュアンスで語っていますがどうなんでしょう。少し精神的な危機が落ち着き、病的過程が回復に向かったから、自然と外界に関心が向くようになったというのが精神科医の見方です。

 統合失調症の方で、どうしても自分に関心が向かってしまうという病状の方がいます。精神科医ブランケンブルグの挙げたアンネ・ラウは、自分の探究という作業から抜け出すことができません。自分が危機的なのは、自分にどこが欠けているのかということばかり考えてしまいます。そして、自分は人にとって自明であることが自分では自明ではないということに思いが至ります。しかし、それでも苦しい格闘から逃れることはできません。知力や意思では精神疾患は治らないのです。

 アンネに、「ラッセルは外界に関心を向けたから健康になれたと言っています。あなたも自分のことを考えるのをやめて何かに関心を持ったらいかがでしょう」と言ってもまったく解決しないのが統合失調症です。そんな単純な問題ではないのです。より複雑で高遠な疾患なのです。

灰になる

 道元は、「仏道をならふといふは、自己をならふなり、自己をならふといふは、自己をわするるなり、自己をわするるというは、万法に証せらるるなり。・・・」と現成公案(げんじょうこうあん)の中で語っています。よく生きるということに囚われている自分から自由な方がよりよく生きられるというパラドックスです。よく生きようと思えば思うほど、それに真面目であるほど、よく生きることから遠ざかっていくそんな気がします。

 超一流の自己実現のためには、類まれな才能や活力を必要とします。ここでまた、精神病にもどりますが、精神疾患にり患した方は、普通、いわゆる自己実現が難しくなります。(優れた自己実現者や天才もいますが) 

 私が関心を持っているのは、立場上もありますが、精神病患者の幸せの実現です。健常者の自己実現と同等のあるいはそれを超える幸せの可能性についてです。それができる可能性がなければ人間は平等とは言えないでしょう。

 自己実現ということが、健康で才気あふれる一部の人のものだとすると、それはきっとあまり重要なものではないのだと考えます。

サンディエゴのライオン

 岩田靖夫(いわた やすお、1932年4月25日 - 2015年1月28日、哲学者。文学博士 学位論文「アリストテレスの倫理思想」)は、彼の著書「よく生きる」の中でこう言っています。「しかし、人生の不思議な点は、実は自己実現には人間の本当の喜びがないということなのです。本当の生きる喜びは、感覚的快楽の享受をはじめとする様々な自己満足のうちにはないのです。では、何のうちにあるのでしょうか」。「結論だけ言うと、生きる喜びは『他者との交わり』のうちにあるのです。これが私の結論」。

 すごいことを言っています。「自己実現には、人間の本当の喜びがない」とは。 常識がひっくり返るような言葉です。マズローもびっくりですし、イーロン・マスクも本当の喜びを知らないかもしれないということになります。 

 この自己実現を超えるものについて「その3」で追求したいと思います。(2025年2月)