「何もできないことができる」の価値

 一般的に言って、「生産性が高いとか成果を上げている」ということが、人間の価値のように思われています。ビジネスの世界でも芸能人でも職人でも「成功」の一つの指標とされます。

 多くの人は、それを目指しています。ですが、生産性はなかなか上がらなくて、多くの人が悩んでいます。また、生産性が高まれば多忙となり、仕事の質は落ちるということにもなります。

長野

 人はそんな世界であくせくして勝手に苦しんでいます。自分の生産性が人に比べて高ければ優越感を得て、低ければ危機感を感じる。一喜一憂する。なんとも切ないものです。

 これを超越するのはいかがでしょうか。多くの老人、精神疾患や身体疾患に罹患している人、あるいは知的障害。そのようなハンディを持った人は、自分の生産性が上がらないことをそう悩んだりしません。(悩む人もいる)。

 自分の生産性を少しでも上げたいとセコセコしている人や自分がどれだけ生産性を上げているか、役に立っているのかを気にしてばかりいる人。数字をチェックしなくてはいられない人。一生涯、そんなことにとらわれているビジネスマン。日本経済を支えてくれているという意味でありがたいのは確かです。ただ、自分の人生は何だったのかと思うかもしれません。

千葉

 しかし、それを超越している方たち、「何もできないことができる」しかも「それを深刻に考えない」となれば、非常にすばらしいことかもしれません。そういう人がいるおかげで、生産性の高い人は、優越感を得ることができるのです。これも架空のものですが。生産性という指標に日々おびえている人は、そんな人に本当はあこがれているのかもしれません。だから、何もしない人が許せないのかもしれません。

 つまり、「いろいろなことができる」とか「生産性が高い」と言う人もそれは相対の世界ですから。「何もしない人」、「何もできない人」、「生産性が低い人」を悪く思ったり、自分だけ生産性を上げて損だなどと思わないことです。全部で一つなのです。

 「何もできないことができる」、「何もしないことができる」は、一つの才能かもしれませんし、長い間の格闘の末にようやく得られたかもしれません。そして、比較の世界において周囲の心の安定に寄与しています。ある意味でもっとも豊かなことなのかもしれません。

練馬

 無為でいられる才能に恵まれなかった人は、自分の能力を必死に磨き、常に人と比較して自分の立場に固執し、損をしたか得をしたかばかりに毎日とらわれています。その挙句、誰もたいしたことはできないのです。

何もできないことができる」ようになるのには、努力だけでは困難であり、稀有な才能を必要とします。普通の人間なら、こうしていられない、何かをしなければと不自由な道にもどってしまいます。

浦和

何もできないことができる」のすばらしさをだめにしてしまうのは、「これでいいのか」という望ましくない考えです。あるいは、「どうしても社会復帰しなければ」とか、「人の役に立たなければ」などという考えです。これは、本人にも周囲の人にも生じます。これらを超越しましょう。

何もできないことができる」の人が唯一やらなければならないのは、バカボンのパパと同じで、「これでいいのだ」と何の躊躇もなく言うことです。

そしてやすらぎましょう。毎日勤勉にせかせかと働く人も何もしないでいられる人も互いに尊重して共存できる社会へ。次に3つの例を挙げます。

良寛(禅僧)の生き方

 江戸時代の禅宗の僧侶・良寛は、現在の新潟県の有力な商家で生まれ育ちましたが、家業を継ぐ資質がなかったのでしょう。岡山県で長い事仏教修行をして権威ある僧侶になりました。しかし、その後、寺も持たず、人から小屋を借りて住み、僧侶らしい仕事は一切しませんでした。托鉢だけです。座禅もしたかもしれません。極限状態の貧困、その日暮らしの生活、役に立たない生活を選んだのです。托鉢以外にやることと言えば、子供たちと夕暮れまで手毬で遊んだり、かくれんぼしたり、どうしても頼まれれば、書をしたためました。ほとんど生産的なことをせず、人に頼って一生を過ごしました。明日のために貯えもしなかったし、弟子を育てることもしませんでした。

荘子(そうじ)の場合(人間世篇じんかんせいへん)


 大工の棟梁である(せき)が斉の国で、神木であるクヌギの巨木を目にしました。その大きさは数千頭の牛を覆うほどで、幹の太さや高さも巨大なものでした。しかし、石は見向きもしません。
 弟子は、これほど立派な木に石が関心を持たない理由を聞きました。石は、「あれは役に立たない木だ。あれで舟を作れば沈むし、棺桶を作ればすぐに腐るし、器を作ればすぐに壊れるし、門扉を作ればヤニだらけになるし、柱にすれば虫に食われる。何の役にも立たない木なので、あんなに長生きできたのだ」と言います。
 その晩、石の夢にクヌギの神木が現れ、次のように語りました。「カリン、ナシ、ユズなどの木は、実が熟すと皮をむかれ、枝は折られる。これは、その有用な能力によって、自らを苦しめることになる。だから天寿を全うできずに途中で若死にする。私は、何の役にも立たない存在になることを、長い間求めてきたのだ。もし私が役に立つ木であったなら、そもそもこれほど大きく成長することができなかっただろう」。

「人皆有用の用を知りて、無用の用を知るなきなり」 (人はみな、役に立つことの意義はわかっているが、役に立たないことが実は大きな役に立っているということを知らない)


聖書の場合:ルカによる福音書 10:38-42

 イエスが「何もしないこと」を、「忙しく働くこと」よりも高く評価したエピソードに、新約聖書の「ルカによる福音書」10章38節〜42節に記されている「マルタとマリア」の話があります。

 イエスがある村に来られると、マルタという女が自分の家にイエスを迎い入れた。彼女にマリアという姉妹があったが、マリアはイエスの足元に座って、みことばを聞いていた。もてなしに忙殺されていたマルタはやがてそばに近づいて、「主よ、私の姉妹が私一人にもてなしをさせるのを何ともお思いになりませんか。この人に、私を助けるように命じてください」と言った。すると主は、「マルタ、マルタ、あなたはいろいろなことを心配して心を使っている。だが必要なことは少ない。いやむしろただ一つである。マリアは自分から奪われることのないよりよいほうを選んだ」と答えられました。

原則

 これらから浮かんでくる原則があるように思います。

第一に、あくせくと働く人は、自分だけが働き損していると思い、働かない人を足りないと思いがちです。あるいは、もっと自分は高く評価されて当然だなどと思うかもしれません。イエスの言うようにそれは間違った認識です。まじめに修行し、弟子を育てる禅僧、働き者のマルタ、役に立つ木。それらは、そうでない良寛を、マリアを、クヌギの木を悪く思ってはいけません。悪く思う必要がありません。自分の労働を楽しみ、働ける才能に感謝しましょう。

第二に、良寛、マリア、クヌギの側の人は、自分は役に立たないという罪悪感を持ってはいけません。これではだめだと思って苦しんではいけません。

これを精神科にあてはめて考えてみましょう。健常者で必死に働いている人、有能で成果を挙げている人は、働かない精神障害者を悪く思うとしたら、それは間違った認識です。また、精神障害者は、働けない自分は悪い人間だと思ったらそれも間違った認識です。

働かざる者、大いに食うべきだ。

2025年12月