「人が嫌がることを自分はしない」の研究

 人間関係を円滑に保つためにどうすればよいか。ごく当たり前のこととして、人が嫌がることは避けるという原則に多くの人が同意すると思われます。 

 その逆の「人が嫌がることを自分はする」という人もいるので驚きます。その代表格はもちろんトランプ大統領です。自他ともに認めるところでしょう。

 それは、さておき、人間関係について豊富な内容を持つ「論語」をみてみましょう。

仲弓(ちゅうきゅう)、仁を問う。子の曰わく、・・・己の欲せざる所は人に施すことなかれ・・・。(顔淵第十二)

 ※論語は20の章に分かれており、これは12番目の顔淵篇にある文章の一つです。顔淵は顔回(がんかい)ともいわれる孔子の優秀な弟子の名前です。

 弟子の仲弓とはどういうものか、先生である孔子に聞いた。・・・

 自分の望まないことは人にしむけないように・・・。 

 孔子は、仲弓雍也、ようや)を人の上に立てる人物だと評価していたようです。雍也篇の第一番目に「子曰わく、雍や南面せしむべし」という記載があります。天子や国君が政庁において南面して着座することから、人の上に立てる人物であるということです。

 衛霊公篇に孔子は、聖人である(しゅん)について以下のように語っています。「舜は、ただ慎み深くして、正しく王位についていた(南面していた)だけだった」。何もしなくても天下が治まっていたということです。これが孔子の理想なのです。

 論語の中には、同じような表現がほかにもあります。

子貢(しこう)問うて曰わく、一言にして以て終身これを行うべき者ありや。子の曰わく、其れ恕(じょ)か。己の欲せざる所、人に施すことなかれ。(衛霊公第十五)

 子貢が孔子に「ひとことだけで一生行っていけるということがありましょうか」。孔子は言った。

 「まあ(おもいやり)だね。

 自分の望まないことは人に仕向けないことだ」。

同じような内容ですね。

 他にもあります。もう一度、子貢が登場します。この文章が問題です。

 子貢(しこう)が曰く、我人の諸(こ)れを我に加えんことを欲せざるは、我亦(ま)た諸れを人に加うること無からんと欲す。子の曰わく、賜(し)や、爾(なんじ)の及ぶ所に非(あら)ざるなり。(公冶長第五)

 孔子の頭の良い弟子である子貢が孔子に言った。「私が他人からされて嫌だと思うことは、私も他人に加えないようにしたいです」。孔子は言った、「子貢や、まだ、お前さんのできることではない」。

 論語に出てくる孔子の弟子たちは、みな個性的に描かれています。そして、その個性が一貫しています。子貢は頭がよく、少し自意識過剰で、考えに実践が追い付いていないところがあったようです。

 孔子の弟子では、顔回がとにかく実力、人格とも申し分なく、孔子は、「お前と顔回ではどちらが優れているか」と子貢に問う場面もあります。子貢はライバル心もあるのでしょうが、顔回にはかなわないと答えています。

 渋澤栄一は、「論語講義」でこの部分にも詳しい解説をつけています。渋澤の文も古語になり難しいので、竹内均がさらに分かりやすく訳したものをみてみます。

 渋澤は、自分の欲しないことを人にするなというぐらいは未熟な私でもそれほど難しいことではないと言います。

「わが身をつねって人の痛さを知れ」ということわざ通りで、少し情のある人ならば他人の体をつねるようなことはしない。これは誰にでもできることである」と語っています。

 「しかし、『人が私にしてほしくないことは、私もまた人にしないようにしたい』は、他人を主眼とするから行い難いのだ」と言います。恕と仁の差があるとしています。

 渋澤は、他の訳者と異なる解釈をしているように思えます。渋澤の言っていることは、「私(子貢)は、他者Aが私(子貢)にして欲しくないとAが思うことは、私(子貢)は、他者Bにもしないようにしたい」という意味だと思われます。Aの気持ちを察するのは難しいでしょう。だからか、渋澤は、これを恕を超える仁だというわけです。

 他の訳者は、もっと単純に、「私(子貢)が他者Aからされて嫌だと感じることは、私(子貢)は、他者にしないようにしたい」という意味に解釈しています。宇野哲人は、「子貢の志すところは、恕である(仁ではない)」と記載しています。つまり、専門家であっても解釈が異なっているようです。

 加地伸行は、「私としましては、他人が良くないことを私に押し付けてくるのを望みませんので、同じく私も良くないことを他人に加えることはすまいと思っています」

 貝塚茂樹(湯川秀樹の兄)は、「わたくしは、他人がわたくしにしかけてほしくないことは、自分も他人にしかけることがないようにしたい」

 金谷治、「わたくしは、人が自分にしかけるのを好まないようなことは、わたしの方でも人にしかけないようにしたい」

 井波律子「私は他人が私に圧力を加えることは望まないし、私もやはり他人に圧力を加えることがないようにしたい」

 土田健次郎は、「他人が自分にしようとしてほしくないことを、自分もまた他人にしようと望まない」。「これは、仁者ができることであって、努めてするようなものではない。それゆえ孔子は、思考が及ぶ所ではないと見なしたのである」という。

 土田の「他人が自分に」の自分はその他人のことだと思います。

 吉川幸次郎は、加の字は、しのぐと読み、物質的、精神的な暴力、ないしは圧力を、人に加えることを意味する。吉川は、2つの意味を挙げています。

 一つは、「我人の我を加ぐことを欲せざる也。吾も亦た人を加ぐ無からんと欲す」。「私は、人が私に暴力を加えることを欲しない。それとともに、私も人に暴力を加えることを欲しない」。こちらは大方の解釈と同じです。

 二つ目は、朱子の新注により、「人の我に加うることを欲せざることを、吾も亦た人に加うること無からんと欲す」と読むとしています。これ以上訳していませんが、「他人が自分にされたくないことを私も他人にしたくない」でしょうか。こちらは、土田の解釈と同じです。

 これらは、結局、自分がされたら嫌なことを人にしないか、人がされたら嫌なことを人にしないかの違いでしょう。後者はちょっと難しく、前者が恕ならば、後者は仁ということでしょうか。

土田、渋澤、吉川の2番目の説が似ていて、それ以外と対立しています。専門家の先生方には議論してほしいところです。皆、朱子(朱熹)が編纂したものを読んでいると思われるので、朱子の責任は重いですね。

少し離れますが、

子の曰わく、参(しん)よ、吾が道は一以てこれを貫く。曾子の曰わく、唯(い)。子出ず。門人問うて曰わく、何のいいぞや。曾子の曰わく、夫子(ふうし)の道は忠恕のみ。(里仁第四)

 孔子は言われた。「曾子よ、わが道は一つのことで貫かれている」。曾子は「はい」と言った。孔子が出ていかれると、門人が尋ねた。「どういう意味でしょうか」。曾子は言った。「先生の道は忠恕のまごころだけです」。

 孔子が忠恕を大切にし、それが弟子に伝えられていることがわかります。弟子のうち、優秀だった顔回は、孔子よりも早く病死してしまい、勇猛でイケイケ男であった子路は孔子の心配した通り戦死し、軍団を率いたのは、顔貌が孔子に似ていた曾子だったようです。

 次は、パリ生まれのヴォルテール(1694ー1778)の寛容論からです。第6章「不寛容は自然法と人定法とに含まれているか」※人定法(じんていほう)は、人間が人為的に制定・確立した法のことで、自然法の対義語

 自然法とは、自然が全人類に教示する法にほかならない。諸君が子供を養育した時、その子供は諸君に対して、父に対する尊敬と恩人に対する感謝の念を抱かねばならない。諸君は自分の手で耕した土地からの収穫物が自分の物であるという権利がある。諸君が約束を行ったり、約束されたとき、その約束は守られなければならない。
 
 人定法はどのような状況であろうとも、この自然法の上にのみ確立されうるものである。
 そして、この2つの法の大原理、普遍的原理は地球のどこであろうと、

自分にしてほしくないことは自分もしてはならない

ということである。さて、この原理に従うなら、ある一人の人間が別の人間に向かって、「私が信じているが、お前には信じられないことを信じるのだ。そうでなければお前の生命はないぞ」などとどうしていえるのか理解に苦しむ。これが、ポルトガル、スペイン、ゴアで言われた言葉である。

 非常に興味深いことに、カントの「道徳形而上学の位置づけ」にも同様の事柄があります。第2章の注釈ででカントは以下のように述べています。なお、これは、注釈に記載されており、いくつかの文庫本ではみることができません。

 通俗的な「汝がなされたくないことを他人にしてはならない」が基準もしくは原理として役立つことができるとは考えてはならない。これは普遍的な法則ではない。自分自身に対する義務の根拠も、他人に対する愛の義務の根拠も含んでいないからである。
 
 なぜなら、多くの人は、他人に親切を示すことを免れさえすれば、他人が彼に親切をしなくてよいということを喜んで認めるだろうから。最後に相互的な責務的義務の根拠を含んでいないからである。なぜなら、犯罪者は上述の言を根拠として、彼を罰する裁判官を論難するであろうし、またはこれに似た事柄が生じるからである。

 最後の文は、具体的にはこうなります。死刑を宣告された罪人が、裁判長に向かって「自分にしてほしくないことを私にもするな!」と言うことです。そして、こう付け加えるかもしれません。「これは、孔子やヴォルテールも言っていることだ!」と。

 以上からわかるように、カントはまったく異なる考えを示しています!

最後は、キリスト教の新約聖書からです。

 最も有名なのは、イエスが山の上で弟子や群衆に説教した「山上の垂訓(さんじょうのすいくん)」の中の言葉です。

「このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子供には良い贈り物をすることを知っているとすれば、天にいますあなたがたの父はなおさら、求めてくる者に良いものを下さらないことがあろうか。だから、何事でも人にしてほしいと望むことは、人にもそのとおりにせよ」。 (マタイによる福音書 7章12節)

 また、ルカによる福音書にも同様の記述があります。

 あなたの上着を奪い取る者には下着をも拒むな。あなたの求めるものには与えてやり、あなたの持ち物を奪う者からは取り戻そうとするな。人々にしてほしいと、あなたがたの望むことを、人々にもそのようにせよ。
 自分を愛してくれる者を愛したからとて、どれほどの手柄になろうか。罪人ですら、自分を愛してくれる者を愛している。自分によくしてくれる者によくしたとて、どれほどの手柄になろうか。罪人でさえ、そのくらいの事はしている。(ルカによる福音書 6章31節)

 この新約聖書のイエスの言葉だけが、カントの条件を満たしているようにみえます。驚きです。2026年3月