心配しすぎることの弊害

日本人の病的特性

 間違った認識から間違った風潮が生まれる。誰もがそれを疑わない。

 日本人の多くは優等生だ。例えば、ほとんどの人がマスクをしている。してないと悪い人みたいだ。マスクをしている方が感染を防げると考えるからだが、していないと白い目で見られるからでもある。横へならえだ。しかし、この発想はある意味で危険だ。どの程度、本当に感染を防げているのかわからない。また、マスクをしていない人に過剰に反応する。しかも集団で反応する。

 有名なジョークで、知っている人も多いが、

 ある豪華客船が航海の最中に沈みだした。船長は乗客たちに速やかに船から脱出して海に飛び込むように、指示しなければならなかった。船長はそれぞれの外国人乗客にこう言った。こう言えば飛び込んでくれるからだ。 

アメリカ人には「飛び込めばあなたは英雄ですよ」
イギリス人には「飛び込めばあなたは紳士です」
ドイツ人には「飛び込むのがこの船の規則となっています」
イタリア人には「飛び込むと女性にもてますよ」
フランス人には「飛び込まないでください」
日本人には「みんな飛び込んでますよ」

 なるほど面白いと笑っている場合じゃないかもしれない。将来を暗示するかもしれない深刻な問題がここに含まれている。

 マスクをしてなくて感染してしまうと、非難されてしまう。人の目がとても気になるのだ。これは、対人緊張、赤面恐怖、恥など、日本人に特有の問題と関係があるかもしれない。もっと恐ろしいのは、全体主義と通底する臭いが漂うことだ。

 日本人は、ともかく集団の中で異質であったり、その上、失敗したりすることに対して冷たい。出る杭は打たれる。ほらみたことかとなる。そうならないために過剰防衛をする。ともかくやめておこうということになる。やめておけば失敗はない。しかし、それでは改良はできても、創造的な仕事はできない。大きな成功は、斬新な企画と失敗の上に成り立っている。

 「万が一何かあったらどうするんだ」という思考に支配され過ぎている。これは、実に危険なことだ。わずかな可能性のために、多くの自由を犠牲にしてしまうからだ。しかもその問題は気づかれない。正しいことをやって事故を防いでいると思いこんでしまう。

身体的拘束の増加

 精神科病院の中でもそういう問題をみることができる。日本の身体的拘束者や隔離者の数は、下の図のように過去15年で確実に増えている。薬も治療も看護力もよくなっているのにである。しかも、精神病の症状は軽症化していると言われている。

 ここに上述の日本人の独特の病的な問題が表れているのではないかと思う。拘束をとったら何が起こるかわからない、万が一事故が起こるかもしれない。だから、拘束を続行しようということになっていないか。拘束しておけば、確かに1%の事故を0.1%にできるかもしれない。そのため、拘束した時点で職員はほっとできる。しかし、つけは患者さんの方にいく。1の失敗を避けるために、100の不自由を背負わせるようなことになっていないか。とんでもない判断をしていないか?

 職員の安心のために、みんなで安心するために、患者さんの自由を奪い取ってはいないか? その比重を間違えてはいないか? 万が一対策が過剰になっていないか? 検討してみる必要がある。

 ここに、日本人特有の上述の問題が影響しているのではないか。万が一、何かあった時に困るとか、何もしなければ問題ないとか、何でも無難にやっていくとか、みんなに同調するべきとか。もし、チャレンジして失敗したら、それを必要以上に問題視するなど、寛容さの欠如などがあるのではないか。

 ミスの許されない風潮は問題だ。失敗しないことが第一だと無意識に思ってしまう。失敗もしないが、成功もしない。このことは、より多くの損失につながる。

 安易な解決をしていると力はつかない。たとえば、身体拘束でけりを付けようとすると、看護技術も医療技術もそこで終わりだ。安易な解決だからだ。成長を放棄しているのだ。もっと、緊張を保つべきではないか。

 目標は、「よく失敗すること」は間違いではないだろう。「よく」とは美しくとか、華々しくとか、正しくという意味だ。目標を達成する可能性は高い。目標を達成するには、チャレンジを必要とする。

 それで、結論はこうだ。ときどき適度に失敗する程度のところを歩んでいくべきだ。失敗がゼロだという場合、過剰に対策をしすぎて、大きなものを損失している可能性が高い。

 ドクターXの理論だと、100%成功する手術しかしていない。ところが、世の中には、80%しか手術が成功しない、かつ、手術しなければ100%死ぬという症例もある。このような場合に手術しないとすると、多くの助けられる人を死に至らしめることになる。

 それほどに厳しいことだ。「私失敗しないので」は、胸を張って言える言葉じゃない。私は100%成功する手術でないと手が出せない卑小な人間ですと肩をすぼめて言う方が正直だ。

 このように、医療の発想の問題に、万が一のことが起きないようにするという目標がますます強くなる。事故のないことが第一になる。集団の心理としてはどうしてもそちらの方向に進みやすい。すると、どういうことが起こるか? 自由とか、許容とか、寛容とかいうことがなくなる。大きなものを放棄することになる。人間の生の原理と異なる。

 そのような風潮はますます強くなっている。ミスを犯してはならないとか、事故を起こしてはならない、転倒は絶対的に防止しなければならない、誤嚥もあってはならない。確かにそうかもしれない。しかし、程度を吟味しないと多大な犠牲を伴う。

 そうするとどうなるか? 患者さんの自由はひどく奪われる。拘束や隔離は多くなり、転倒防止のために胴ベルトをさせられる。誤嚥は危険だから、食事はどろどろのものだけだ。外泊失敗した患者は2度と外泊させない。一度失敗したことは2度とやらせない。このような誤った判断がとんでもない問題を引き起こしているのではないか?

 われわれは、これらのことに気を付けていかなくてはならない。

まとめ

 絶対に問題を起こさないなんて発想はやめよう。自分でも他者でも勇気を持った取り組みを推奨しよう。

 何かを少し緩めたとしても、そう大きな問題にはならないだろう。気づかれない大きな損失をおこさないために。

 成功したところで成功の理由はよくわからない。失敗は、もっと多くを教えてくれる。

 日本人の特性の一つについて述べた。それは、平均的な日本人の限界を示している。万が一の失敗を過大評価して、失敗しないようにすることを第一としてしまう。失敗した場合に恥だと思いすぎる。それを集団で非難する。その結果、安全が最優先される。その結果、大きな負債が生まれる。

 そのことによって、斬新な取り組みとか、新たな発想、挑戦などということがないがしろにされる。白い目で見られる。失敗に対して集団で過剰に反応する。

 日本人は改善、改良は得意だが、創造的な仕事はできなくなってしまう。失敗の可能性のあることはやめておこうということになる。

 この病気に何という名前を付けたらいいかわからない。いや、症候群か。これは、日本人の特徴のように思う。いろいろなところで出てくるだろう。

解決するにはどうしたらよいか?

過剰に心配しないことだ。取り組むことだ。失敗することだ。取り組みを非難せず評価することだ。白い目で見られても挑戦をやめないことだ。