道元の言葉 正法眼蔵随聞記 その5
第13章です。ある人が道元に言いました。「名誉、利益の2つは仏道の妨げになるから捨てましょう。しかし、衣服が糞掃衣(ふんぞうえ)*1、食べる物が常乞食(じょうこつじき)という生活はできるでしょうか」。「摩訶迦葉尊者(まかかしょうそんじゃ)のようなインドの優れた尊者ならともかく、私どもでは無理じゃないでしょうか」。
これに対して道元はこう言います。「インド、中国、日本と仏教の伝来は国によって違うが、衣食の後援者を決めておいて修行するなどということはかつてない。ひたすら道を学ぶべきである。仏は、三衣(さんえ)と応量器*2のほかは少しも貯えるなと言われた。・・・生きていくための衣食の資材は、人の一生に備わった分量がある。求めたからといって得られもしないが、また求めないからといって得られないものでもない。まさしく自然にまかせて、心を使ってはならない」。
*1 糞掃衣(ふんぞうえ)は、人が捨ててかえりみない布をつづり合わせて作る袈裟。
*2 応量器 禅宗の修行僧が使用する個人の食器のこと。
このように道元は、食べるもの、住むところなど心配するなといいます。これが、現代でそのまま通用するのか、やはり真実なのかはわかりません。
キリスト教の聖書にもあります。「何を食べようか、何を飲もうかと、自分の命のことで思いわずらい、何を着ようかと自分のからだのことで思いわずらうな。……あなたがたの天の父は、これらのものが、あなたがたに必要であることをご存じである。だから、神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて添えて与えられるであろう。だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことはあす自身が心配するであろう。一日の苦労は、その一日だけで十分である」。(マタイ6)
将来のことを考えて貯えたいという考えが一般的にはあります。稲作など耕作が始まってから、人間は貯えることを知りました。明日のために貯える。それは安全に生活するために有効な方法です。しかし、貯えられる人と貯えられない人の差別が生まれてきます。有力者と非有力者。支配者と非支配者。私有財産。個人は貯金。企業は内部留保。蟻とキリギリスでは、蟻の方が正しいとされていますが、道元の教えによればキリギリスのが正しいという可能性もあります。
少しでも貯えようとあくせく働く。家族のためにもそれはよいことかもしれません。飢饉にならないためにもいいかもしれません。しかし、一方、やたらむさぼろうとか、人より優位になろうとか、いつも稼ごうと考えているのは、美しいものでないかもしれません。
第15章に行きましょう。道元は言います。「世俗の人はたいてい善いことをする時は人に知られたいと思い、悪いことをする時は人に知られまいと思う。そこで、この気持ちが、目に見えない世界にいる諸天や閻魔王の心にかなわないために、善いことをしてもよい報いがあらわれず、人知れずやった悪事には罰が下るのである。そうした自分の経験から、かえって、『善いことをしてもいい結果はあらわれない。仏法のご利益はないものだ』などと思っている。これがとりもなおさず間違った考えである」。
いやあ、素晴らしい視点です。
普通、こんなにがんばったのにうまくいかないとか、大学に合格できなかったと嘆きます。成果を出しているのに正当に評価されないなど。そもそも努力は報われるのか、因果応報はあるのか、なせばなるのかという人間の大問題があります。
この中で、道元のいうとおり、努力しても報われない、割が合わない、それなら一層のこと、悪いことをしてしまえとか、どうでもいいやと投げやりになったりします。でも、その中に邪念があるのではないか。努力が報われなくても善事が知られなくても、努力に相当する成果が得られなくても、それを正しく受け止め、正常を保つことが大切なんでしょう。人と比較してもいけない。自分が生まれつき、他人と比較して不幸であってもそれをいつまでも嘆いていても仕方ない。それを受け止められる強いこころが必要です。それができればたしたものなのでしょう。
人間にとって大切なのは、成果を得ることではなくて、成果が得られないときに動揺しないこと。不当に扱われても恨まないことでしょう。
この点を考えるならば、精神科病院に長くいる患者さんは本当に偉い。自分の運命を呪ったりする人は少ない。ほとんどの人が過剰に動揺せずに運命を受け入れているようにみえる。あれこれ損をしないかと心配ばかりしている院長よりよっぽどましだ。道元のこころにかないます。
また、仏道に帰依し敬っても通じないのはどういうことか?
「人は、規律を守っている良い僧と酒をのみ、だらしのない僧を区別し、前者を敬う。ただし、この分別するこころが仏の心に背いている」と道元は言います。「だから、敬っても功徳はないのである」。
商売にかかわる場合、客を区別してはいけない。医療をやっていて、患者を好き嫌いで差別してはいけない。そんなことをしていれば、道元の言う如く、限界がみえてしまう。それ以上、先にすすむことはできない。これは、きわめて大切な認識です。一歩進むためには、差別のこころを自覚して修正していくことなのかもしれません。
いい人間と悪い人間、どうして人間は区別したがるのか、順列を付けるのか。比較するのか。優劣を見るのか。
それは自分の中の悪い部分を投影しているのかもしれません。区別することにより、自分の中に快感が生まれ、自分はその正しい側に入るとしてしまう。
成果を得ているのにまだ不満な人間。成果を得てないが不満な人間。成果を得ていて満足する人間。成果を得ないのに満足する人間。一番偉いのは最後の人間かもしれません。