承認されるということ 「お笑い」の世界

 2021年10月 都道府県ランキングが出て、すごく怒っている知事さんもいる。しかし、これだけ毎年取り挙げられ、知事を怒らせたり、ニンマリさせたりするだけの強い影響力がこのランキングにあるのは確かだ。ランキング会社の勝利だろう。評価や承認というのは、さまざまな分野に浸透し、世の中にインパクトを与えている。

 お笑いの世界にも承認や評価がある。「有吉の壁」というテレビ番組。日本テレビ系列で放送されているお笑いバラエティ番組。芸人が創ったコント?に、有吉が〇か×を出す。お笑いとして承認するかしないか。承認されるために、芸人たちが奮闘する。

 有吉一人が承認か不承認かを決めている。すごい権限だ。それが成り立つのは、有吉の評価を芸人たちも視聴者も認めているということだ。評価者が高く評価されていないと、芸人たちもがんばれない。

 テレビで見ている人も自分なりに〇か×かの評価をする。それが有吉の判断と同一か違うかを比べてみて、やっぱりそうだよなとか、あっそうかなどと受け取る。有吉と同じような評価者側の人間になっているような錯覚を覚える。これが快感になって、テレビをみるのだろうか。

 お笑いの番組は、今や承認や評価、順位が売りになっているものが多い。キングオブコントとかM-1グランプリとか。松本人志のような力のある評価者がいて、点数を付けられる芸人がいる。そういう評価の場が番組になる。金になるということだ。決して新しいことではない。「笑点」もそうだ。座布団で評価する。笑点は評価を取り入れたことで、新しい分野を早々と開拓したのかもしれない。

 チャンピオンになると、急に仕事が増えたりするらしい。スケジュールがいっぱいになる。コマーシャルに使われる。今までの苦労がむくわれる。だから、参加者は必死になる。やっぱり自分は間違ってなかったのだと思えるかもしれない。番組制作は比較的簡単だろう。「出てください」じゃなく「出させてください」の世界だ。

 だから、お笑いなのに笑っている場合じゃないくらいの厳しさだ。優勝すると泣いたりもする。

 テレビでは、俳句さえ競争になる。絵もそうだ。そういう番組がある。どうして、ランキングを付けようとするのか? 料理もそうだ。ミシュラン。泣く子も黙る相当の権威があることになっているようだ。

 比較がある限り、競争がある限り、努力しなければいけないし、他人に勝らなければならない。幸福はないような気がする。だから、引退もある。しかし、競争をなくすことはできない。では、どうやって競争のある世界の中で、幸福に生きるか?競争や比較と共存していくか? また、どうして、比較や競争が人間は好きなのか? 

 いい面についても言わなくてはならない。評価の場とかコンテストとかは、悪いばかりじゃない。知られざる人が世に出るチャンスである。こういう場がなかったら、才能も埋もれてしまうだろう。いろいろな作為もあり、完全に平等とはいかないけれども、チャンスを提供する。

 あらゆる分野において、評価される側から評価する側への移行が成功の証となっている。お笑いの世界でも、論文の審査でも、専門医の資格でも、各種の表彰とかも。ネット上の口コミや☆の数でも。各種審査員は、大御所ばかりだ。

 ところが、SNSでは、評価者には誰でもなれる。評価の能力がなくてもなれる。そこが大きな違いのような気がする。評価者の質を問わす誰でも評価できる場合、その評価には信ぴょう性があるのだろうか。今度の衆議院選挙でもそうだ。誰でも投票できる。政治のことをよくわかっている人も、まったく無知な人も。同じ一票だ。投票者が多ければ、評価者が多ければ、答えは正解に近づくのだろうか?

                              2021/10/19