偉人のうつ病について 白隠の場合
江戸時代の禅僧である白隠(はくいん)の生涯を彼に生じた精神症状を合わせてお話ししたいと思います。白隠は、1685年静岡県の東海道13番目の原宿の比較的裕福な家に生まれました。15歳の時に得度して、慧鶴(えかく)と名づけられました。原にあった臨済宗の松蔭寺の見習い僧から修行をはじめ、19歳の時から14年間雲水修行の旅に出ます。長野飯山の禅師 恵端(えたん)の元で一旦悟りを得ます。しかし、その後、厳しい座禅修行を食事や休養を無視して継続したためか、重い神経症、またはうつ病と思われる精神状態を呈します。その後、白幽(はくゆう)という深山の隠者に秘法を伝授してもらい、それによって症状は軽快、原宿の松蔭寺に戻り修行を続けるとともに雲水たちの指導を行います。松蔭寺は臨済宗の本山である妙心寺などとは異なり、田舎の無名の寺ですが、白隠の評判は日に日に高くなり、全国から雲水が訪れるようになりました。その結果、白隠は500年に1度の僧とまで言われ、その後の現在の各所の臨済宗の系統はすべて白隠の元から出ているとのことです。
うつ状態が治ってから悟りに至るというのは、金次郎と同じです。仏陀(ゴータマ・シッダルタ)もそうではないでしょうか。5-6人で厳しい修行を何年も継続し、やせ細るが悟ることはできず、満身創痍となり、皆から一人脱落します。もう、ヘロヘロになっているところを村の娘のスジャータが差し出したミルク粥を口にして、徐々に心身の力を回復し、菩提樹の下で瞑想を行い、まもなく(比較的短時間で)悟りを得ます。別れた修行者たちに追いつき、彼らにまずその悟りの本質を伝えました。
白隠は、「江戸時代僧侶の行脚距離に関する研究―白隠和尚が歩いた距離―」(渡邊義行、教育医学、2009)という論文があるほど歩いています。彼は、30歳から50歳くらいの間はあまり歩かず松蔭寺にいました。その歩かない時期に大悟したのです。金次郎も桜町で彼の移動に「廻村」という名がつくほど歩いています。彼が悟ったのも、成田山で断食中、つまり移動しない期間でした。それ以前の2か月ほど彼は旅に出ていたのです。マザーテレサも彼女の仲間もスラム街へと毎日非常によく歩いています。彼女が神の声(スラム街に行って助けよというような内容)をはっきり聞いたのは、ダージリンに向かう汽車の中です。彼女はその時椅子に座って止まっていたのです。そういえば、ガンジーも良く歩いています。歩いている写真が多いです。また、彼の一番有名な歩行は、「塩の行進」です。英国の塩の専売に抗議して、300キロも以上歩き、その間に同行者は爆発的に増え、最後にダンディー海岸で塩をすくい上げるという象徴的な出来事に至ったのです。
このように悟りには、食、歩行などいろいろと共通点があるような気がします。たぶん、もういろいろと研究されているのでしょう。そういえば、哲学者は同じところを歩くというのがあるのじゃないでしょうか?西田幾多郎が歩いたのが京都の哲学の道でしたっけ。エマニュエル・カントは ケーニヒスベルク(現ロシア領カリーニングラード) で生まれ、生涯の間半径15kmを出なかったと言われてます。哲学者や宗教者は山と関係が深い事が多いように思いますが、彼は山を見たことがあったのでしょうか。でも彼はよく散歩をし、確かコースや出発時刻も決まっていて、歩いたことは歩いたと思われます。ただし、西田と同様におそらく同じところを繰り返して歩いており、反復運動とかリズムというものを思考の進展に役立てたのかもしれません。宮沢賢治も歩いている写真が多くありますね。ほかに移動する人といえばキリストもでしょう。
そして、比叡山の千日回峰行2回の酒井雄哉(ゆうさい)です。酒井は、僧侶になる前、大学の図書館の仕事を辞めてから、ばつが悪くてしかたなしに毎日のように東京中を長距離歩いていました。彼の「一日一生」を読みましょう。内村鑑三も「一日一生」という名の本を書いています。思うところは共通しているのかもしれません。たぶん、酒井は内村鑑三のことなど知らないでしょう。きっと同じようなことも考えていたでしょうに。酒井は千日回峰行の前に、阿弥陀仏の周りを90日間歩いて回り続ける常行三昧(じょうぎょうざんまい)をやりました。この体験の記録もたいへん面白いです。彼は数日で足がむくんでピンチになるのですが、ある方法(呼吸の仕方)を偶然?思い出してやり遂げることができました。
彼の素晴らしいところは、ガンジーといっしょで、初めはそれほど立派な人間じゃない、どちらかというとダメ人間の要素も含んでいるのです。それが少しずつ変わっていって偉人と呼ばれるような領域に入っていく、そこが実に面白いです。ガンジーは結構赤裸々に自らの恥部まで描いています。父親の看病を熱心に行い、介護係が代わって、開放感や疲れがあったのでしょう、妻とイチャイチャしているときに、父親が死んだという知らせを受けます。まじめな彼はそれを一生の不覚であると後悔します。また、ピーナッツの袋を一度開けたらやめられないで食べ続けてしまうとか、兄の金の腕輪を削って、売って煙草を買ったとか・・・。酒井も重要なところでおかしくなって逃げだしてしまうことの繰り返しでした。彼は自分の得意な歩くということを極め、その結果体質も変化し、うどんだけ食べていれば生きられるようになりました。彼は杉並区荻窪で父親とラーメン屋をやっていたのですが、荻窪の再開発でなくなりました。今はルミネ、タウンセブン、西友のあたりでしょう。だけど、計画性はなく、稼いだ金はみんなでその日にワーッと使ってしまっていたそうです。
さて、ずいぶんと横道にそれてしまいましたが、白隠の話にもどりましょう。白隠はものすごい量の書画を残しています。どうしてこんなにと思います。表現も繊細で写実的だったり、漫画チックだったり、多彩さやユーモアに驚いてしまいます。多産は天才の共通点かもしれません。多産な天才と言えばピカソですね。驚くほどです。また、金次郎も仕法書を大量に書いていますが、個人で書いた世界最大級の量ではないかという人もいます。日光今市にあるそうです。篠山紀信も多産じゃないですか?そして、仕事が早いそうですね。でも、レンブラントとか寡作の天才もいますね。本当の天才は、ぱっと作ってそれはすでに完成されたもので修正はしないというタイプと、それと反対に、修正していくもの、推敲を重ねに重ねる者。これまた面白いものです。宮沢賢治は推敲を重ねた人ではなかったでしたっけ。
白隠は、研究者にとっては、材料を豊富に残してくれたのがありがたいです。大量の書画や自伝もあります。弟子の作った年表もあります。
白隠の性格ですが、これは大事です。自伝「いつまでぐさ」に幼少時のエピソードがあります。原宿の寺に日蓮宗の僧侶である日厳(にちごん)上人が来て、八熱地獄の苦しみを詳しく説いたそうです。それを聞いた白隠は、恐れおののき、その晩、一睡もできなかったということです。感受性が強い、あるいは神経質であるといえましょう。ある時、母と風呂に入りましたが、薪は怒涛のように燃え上がり、白隠は八熱地獄のことを思い出し、恐怖のあまり金切り声で泣き出しました。どうしたらこの恐怖から逃れられるかと白隠は母親に聞きますと、母親は北野の天神様(京都の菅原道真を祭った神社)を敬い申し上げることだといいます。それで白隠は安心します。また、隣村に浄瑠璃芝居の一座がやってきたことがあります。「日親上人鍋被り」という芝居をみましたが、それは法華経の行者は、火に入っても焼けないといい、真っ赤に焼けた鍋を頭にかぶらされたが、微笑んで驚かず慌てない、これを見て、白隠は幼なごころに出家しようと決めたのだといいます。
白隠は、15歳で原の松蔭寺で出家得度。修行に励みますが、19歳の時、英傑とされる巖頭和尚が首を切られて死んだ話を読み、これでは出家しても役に立たないと絶望し、もだえ苦しむこと3日、食欲がない状態が15日ほど続いたといいます。また、焦熱地獄の苦しみも思い出しました。何か変えようと、今度は詩文を勉強しましたが、詩作の腕が上がっても死んだ後の苦しみを免れないと思い、心が沈み、目には涙が浮かんできたといいます。彼にはそういった精神身体症状が出現し始めました。そんな問題を抱えながら、雲水として寺を転々とし、迷いながらも座禅修行を継続したようです。そこに最初の悟りの時が来ます。越後の英岩寺で七日間の断食を終えたとき、ふと遠くに響く鐘の声を聞いて、心身脱落し、歓喜に堪えず大声を出したといいます。ところが、その後、大いに慢心して、誰を見ても土くれのように思えるようになってしまいました。そのことにも気づかずにいました。
英岩寺で出会った雲水の宋格とともに宋格の師である長野飯山の正受老人(恵端:えたん)を訪ねます。しかし、自分では修行者として一定以上の水準に達したと考えていた白隠(当時は慧鶴:えかく)は、正受老人に、「この穴倉坊主め」と縁側から突き落とされます。恵端には一見して慧鶴の高慢さ、慢心が目についたともいわれます。公案を出されましたが、慧鶴の答えは正受老人には受け入れられず、罵倒されることが続きます。そんな日が続き、自信もなくなりますが、熱心に修行は続けます。
ある日、気分が落ち込んだまま托鉢に出かけました。ある家の門前に凝り固まったように立っていると「あっちへ行け」と言われる声にも気が付きません。その家の主人が怒って、箒を逆さにして頭をやたらに殴り、慧鶴は倒れて意識を失いました。ちょうどその時、3-4人の旅人が通りかかり、「どうしましたか」という声で慧鶴は意識を取り戻しました。眼を開くと、何とこれまでの難解な公案がたちまち光り輝くように明らかになっていることに気が付き、歓喜のあまり手をたたいて大笑いしたと言います。助けた人は、狂僧だとい言って逃げていきます。
ここで、思い出しました。京セラの稲盛和夫会長が、鹿児島大学を出て、京都の小さなセラミックの工場で働いていた時、さんざん苦労して、高熱の中でセラミックの成型がうまくいき、たいそう喜んだのですが、いっしょにやっていた部下は冷めきっていて、何がそんなに面白いのかと馬鹿にしたような反応だったというのです。稲盛は単純な驚き、素直なこころ、そして何としてもやり遂げるという情熱の大切さを感じるのですが、部下には理解できなかったのです。人間はなかなか素直になれないのです。松下幸之助の「素直な心になるために」という本もあります。稲盛が松下の講演を聞いたことがあります。松下は、ダム式経営について中小企業の社長たちに話します。今でいえば内部留保のことだと思います。すると、周りの社長たちは、それは分かっている。どうしたら、それができるかということが聞きたいのだということに対して、松下はそうすればいいのだというようなことを言い、失笑を買うのですが、稲盛のこころには確かに響くところがあったようです。
慧鶴が正受庵に戻ると、老師が縁側に立っており、「言うてみなさい。何かいいことがあったであろう」と言います。慧鶴は、詳しく所見を述べました。その後、いくつかの公案を出されましたが、少しの滞りもなく通過できました。そんなある日のこと、老師は、慧鶴の背中をなでて、「長生きせよ。決して小を得て満足してはならない。悟り後修行をせよ。・・・・すべての衆生を救済しようとすることであり、いささかも利名のためにしないならばそれがまことの仏祖の児孫だ」といいます。悟り後の修行には、菩提心が第一であるとも知らされます。慧鶴が正受老人のところにいたのはわずか8か月ですが、正受庵の後継者になれと言われます。それは宋格ではないですか?と白隠はいいますが、宋格はその後早くして死んでしまったそうです。なお、正受老人についてもいろいろと興味深いことが分かっています。大変な人だということがわかります。やがて、その後、白隠は42歳の時に、菩提心とは法施利他(ほっせりた)の善業にほかならないと気付いたと言います。昔、春日の大神がある解脱した上人に「およそすべての智者、高僧も、菩提心がない者はことごとく魔道に堕ちる」と言われたことがあると聞いたというが、それがわかったといいます。人のために尽くさなければ意味がないということです。
慧鶴は、沼津の大聖寺の老師の介護をするために正受老人に見送られて、飯山から郷里に帰ることになりますが、また、波乱があります。慧鶴は再び不調に陥ります。「座禅が過ぎたのか、心火が逆上し、肺金が損なわれ、水分が枯渇して、思いがけずも難治の心疾にかかってしまった。何をしてもおどおどとして、心身ともに怯弱で、両脇にはいつも汗をかく。日常生活の中での道中の工夫は少しもできず、いかなる治療をもってしても救えない病である」。ほかの伝記である夜船閑話にも「肺は熱を持ち、両足は冷え、両耳は耳鳴りのため谷川の水音を聞いているようである。肝胆は常にか弱く、立ち振る舞いはびくびくするようであり、心神はともに困憊して寝ても覚めても種々の幻想が浮かび、両脇に冷や汗をかき、両眼には常に涙が溜まっているようになった」と記載しています。各地の高名な禅僧を尋ねて救いを乞うたけれども、禅病であるとされたが具体的な手立ては誰も知らなかったといいます。
そんな中、ある人から、山城の国白河(長野県飯山)の山奥の洞窟に白幽という仙人がいて助けてくれるかもしれないと聞きます。26歳の慧鶴は大変な苦労をしてようやく白幽の住む洞窟にたどり着きます。おそるおそる洞窟のすだれの中をうかがうと白幽が目を軽く閉じて座っており、机の上には、中庸、老子、金剛般若経だけがあります。慧鶴は白幽に今までのこと、病状のことを話します。白幽は慧鶴を診察して、これは座禅が過度になり、節度以上の修行をしたので、この重症になってしまった。実に治療困難な禅病だと診断します。鍼、灸、薬も効かない。内観の法を行わないと再起できないと白幽は言います。「荘子の言葉で真人はの呼吸は踵でするが、凡人の呼吸は喉でするという言葉があるが、身体の上部は常に清く涼しくすることが必要で、同時に下部は常に温かくするように心掛けないといけない」という。そして、白幽は「我が風体が道士のようだから、我が説くところは仏教と大いに異なるものと思うかもしれないが、そうではなくこれは禅だ」ともいいます。そして、道元の話などもします。
そして、軟酥(なんそ)という鴨の卵ほどの大きさの色も香りも清浄なものを頭の上に置いたと想像するよういいます。その風味は微妙に香り、頭をあまねく潤し、浸々としみながら降りてくる。そして、両肩、両腕、肺、肝、胃腸を注ぎ潤す。両足を温め潤し、そこで止まる。この観想を続けるならば、どんな病も治り、徳も積もり、いかなる仙術も道術も成就するであろうと言います。
慧鶴は、郷里に帰り、この内観の法を密かに修め続けたといいます。すると3年もたたないうちにそれまでのいろいろな病気が治り、そればかりでなく難しい公案がすっかり根底からわかるようになった。そして、足が冷えて困っていたのも治り、厳冬の日でも足袋もはかずにすますようになったといいます。
白隠は、「このような話をするのは、生まれつき優れた素質があって、すでに修行ができあがった諸君のためにではない。痴鈍で病に悩んでいる、かつての私のような諸君が、この書をよく読んで子細に観察するならば、必ずや少しは助けになるだろうと思うからである。そして、夜間船閑の中でその大略を記し、それ以来、僧俗男女を問わず、この内観法によって難治の重症が治り命が助かったと、松蔭寺にお礼を言ってくるものが多数あった」といいます。これは、キリストが聖書の中で語った「私が来た意味」とまったく同じですね。マタイによる福音書第9章に次のような箇所があります。「ファリサイ人たちは弟子に向かい、『なぜ君たちの先生は税吏(ぜいり)や罪人(つみびと)たちとともに食事するのか』と言った。イエスはこれを聞いて『医者が要るのは健康な人ではなく病人である。私が望むのはあわれみであっていけにえではないとはどんな意味かを学びに行け。私が来たのは、義人を招くためでなく罪人を招くためである』と言われた」。
いつまで草の上巻の末尾には、良し悪しの見分けのつかない者がみればカス言句だといって破り捨てて唾を掛けるだろうといいます。そして、しかし論語にも「人に認められずともこれを怨まず」とあるではないかと記載しています。論語に数か所あったと思いますが、学而第一に「子曰く、人の己を知らざることを憂えず、人を知らざるを憂う」とあります。
ここで、非常に不思議だと私の思うことをお話しします。まず、白幽ですが、これは実在の人物のようですが、年代が少し異なっており、白隠の作ったフィクションのようです。それにしても、白幽の机の上にあるのが、仏教書だけでなく、儒教の中庸と老子だといいますから驚きます。白幽本人も、道士ではなく禅だと言っているのがますますおかしいです。また、白隠は、神道にも言及しています。そもそも春日大社のことも母にいわれましたね。500年に1度の臨済宗の祖なのに、神道、儒教、老子に救われたということになります。臨済禅は素晴らしい、それによって救われたとは言わないわけです。そのこだわりのなさに驚きます。そういえば、ガンジーはイスラム教との共存を目指していましたし、新約聖書の「山上の垂訓」が好きだと言っています。彼はイギリスに滞在して弁護士資格を取りますが、その間にキリスト教徒とも知り合い勧誘も受けます。キリスト教徒にならなかったのは、彼の知っているキリスト教徒があまりにもだらしなかったからだと言っています。マザーテレサはキリスト教一辺倒と思われていますが、彼女が最初に町で仕事を始めた場所はヒンズー教の寺院の関連施設です。死にゆく人々のその宗教を尊重しました。ちなみにマザーが邪魔する人間に怒りを現したのは、ここだけかもしれません。キリストも1回だけ、寺院で商売する人に対して怒りぶち壊して追い出していますね。マザーは中国に行ったとき、共産主義も受け入れることを話しています。金次郎も、儒教、仏教、神道だけでなく不二講という新興宗教すら認めています。というか助けられています。多くの日本人が宗教については柔軟なところが案外よいところかもしれませんね。新渡戸稲造は、外国で、日本人には必ずしも特定の宗教があるわけではないというと、善悪の基準はどうなっているのかと驚かれます。そこで、考えて生まれたのが、彼の「武士道」だそうです。
そうそう、問題は、白隠の病状がどのようなものであったかです。かれは金次郎と同様に極端な無理をしています。というか、没頭してしまうのでしょう、寝食を忘れて取り組んでしまう。それは、凡人にはないものを持っているから仕方ないのかもしれません。石田梅岩もそう。そして、いずれも、自分の思ったところに容易には達せない。かれらは「飽き足らない」、理想高く追い込んでいきます。そして、執着してしまいます。たとえ良いことであっても執着は執着なのでしょう。それは、初めは、自分のためなのです。金次郎も、白隠も、それが、利他の考えになっていく。自分のつまらないものを捨てていくということなります。
また、白隠の症状をみてみますと、神経質、まじめ、感受性の強い病前性格を持ち、発汗、動悸、足の冷えなどの自律神経症状や食欲不振などを伴ったうつ状態であると考えられます。今であれば、抗うつ薬を使用して安静を保つというのが初期治療となります。血液検査などもしてみたいところです。
文献 いつまでぐさ、夜船閑話(数種)、白隠ものがたり、白隠禅画の世界など
- 偉人のうつ病について
- うつ病になった二宮金次郎
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