うつ病になった二宮金次郎 その2
金次郎 行き詰まる,そして失踪する
金次郎は小田原から桜町まで往復し検分を重ねた後,文政6年3月(35歳),栢山の家屋を売り払い背水の陣で夫人,長男と桜町に移住して本格的に仕法に取り組み始めました。しかし,桜町は,博打,喧嘩,盗み,酒がいたるところでみられ,田は荒れて米の生産量が激減し,村も宇津家も経済的に破たんしていました。金次郎は,着任と同時に未明から廻村を行い,一戸ごとに指導しながら夜に帰宅するという生活を始めたのです。
金次郎は,荒れ地の再開発,家屋の修繕などさまざまな策を行りました。収納は増加し始めましたが,金次郎は,後述の道歌にあるとおり進捗具合が自分の理想と比べて「蟹の歩み」のように遅いと感じていました。もっと早く改革を進めたかったのだと思います。農地の開発のためには人口の増加が必要であると金次郎は考えて,新入百姓を優遇しましたが,当然ですが,他郷の者を優遇することに不満を持つ村民もいました。また,新入百姓も周囲からの圧迫に耐え切れず脱走する場合もあったようです。文政9年には金次郎は組頭格となり桜町の主席になりましたが,なお脱走者は多く,人口の増加は進みませんでした。金次郎は人口増加策を徹底し,出生届などは書面での届出として明確にし,逃亡者を連れ戻すなど奔走しました。こういう具体的対策を思い付き実行に移せるのが金次郎のすごいところです。後述する道歌に当時の憂うつな気分が表現されていますが,苦境の中,文政10年(1827年)の2月(39歳)に,金次郎は病気と称して陣屋*[1]の仕事を休んでひきこもったという記載があります。
このような中,文政10年12月に小田原藩から豊田正作が上司として赴任した後,一部の村民らと結びついて抵抗勢力となり,金次郎らに強い心理的負担を与え始めました。金次郎にはある程度の裁量権が与えられていたはずですが,それが危うくなりました。小田原藩の藩士たちにも同郷の農民出身の金次郎が取り仕切っていることに反発があったとされています。忠誠や秩序を重んじる金次郎にとって,武士である上司に背くわけにいかず,強い葛藤状況が生れたと考えられたと考えられます。佐々井信太郎によれば,「豊田は文字の知識あり弁才あり,一々先生の趣旨に復することなく意見を主張して下がらない。村民と結んで譲らない情勢となった」。どうしてこうなるのでしょうか,人間は。自分の小さな利益とか,プライドとかそんなものが優先されてしまい,まっとうで大切なことが踏みにじられます。そのため,文政11年(1828年)は金次郎にとって最難局の年になりました。3月には豊田正作へ歌二首を作りましたがこの若干奇妙にみえる対策の効果はありませんでした。何か判断も行動もおかしくなっていたのかもしれません。金次郎には「何程努力しても仕法は一進一退を免れない」とも感じられるようになりました。
これらに窮した金次郎は,文政11年5月16日に役儀願書(辞職願)を小田原藩江戸屋敷に提出したのです。「いろいろと予定どおりに行かず・・・村勢再建,農民の生活を安楽にし,永続させることは,私ごときものではなかなかできないところである。・・・高田才治殿,勝俣真作殿はどちらもご身分にすぎた重い役目であったため,それが病気の原因となり,ついに死去された。・・・つぎにとるにたらない身分の私一人が残って,夏の虫のように火の中に飛びこんで,あとさき考えずに勤めてきた。力の足りないことを心配したせいか,二,三度もさしこみのような痛みが起こったが,薬をのみ,気分を変え,のりこえてきました。ところが今年は特に強いさしこみが起こり,お役目が果たせず,やむをえず申し上げた。このように毎年いろいろの支障が出てきたのは,大切な仕法の年限中,病人や障害をそのままにして,陣屋の役目をかけもちにしたまま放置したからで,十カ年・二十カ年経っても農民の永続はむずかしい。先年申し上げた御年貢高にふやすことはできたが,ただそれのみにすぎない・・・三十年も長びいたら,まことに恐縮で御仕法の支障にもなるだろう。・・・どうかお役目を辞職させていただければ,温泉にはいるかなにかで気分を変え,療養したいと思う・・・」。岡田は,「辞職願は敗者の困窮し疲労しきった者のものではなく,小田原藩と宇津家の家臣団を相手取り,四ツに組んで仕向けた論争と要求の文面である」としています。金次郎を尊敬する人は,彼が心身ともに参ってしまったということを心理的に受け入れたくないのだと思います。しかし,素直に読み取れば,本来の金次郎の価値観からみるとこの役儀願書の内容は不自然であり,その提出の事実と併せ金次郎の精神の変調を示すものと私には推測されます。「さしこみ」もうつ病に伴う身体症状のように思えます。この辞職願は却下されました。
道歌にも当時の金次郎の心情がよく表現されています。金次郎が桜町に移住した年の翌文政7年7月の「朝顔に真垣の遠きおもひかな」では改革が思い通りにすすまない「重い」気持ちを詠んでいるともいわれています。文政9年8月の「うは向きは柳と見せて世の中は蟹のあゆみの人ごころ憂き」や文政10年5月の「かきつばた見ても物うききのふから」には,抑うつ気分が率直に表現されているともいえます。豊田が着任した後の文政11年3月15日の「古への白き(を)よきとせんたくの返すがへすもかへすがへすも」と3月17日の「身をさきに人をも供に清して白きところに止め給へよ」では,「白き」純潔なものを金次郎が求め,妨害による仕法の危機を憂えたものとされ,見込みの薄い願望が表現されているとされます。主体的に問題解決を図ってきた普段の金次郎と比較すると,他力頼みや感傷的な表現が多く,精神的な不調が表れていると私には考えられます。これらの道歌は,八木繁樹編著「二宮尊徳道歌集」緑陰書房に掲載されています。もちろん古本しかなくネットで購入しましたが,このような本があること自体驚きです。
文政11年9月29日には,思想に近似性があり心の支えであった不二孝*[2]を広めた鳩ケ谷の小谷三志に「二と三と一つたがへど軒ならび」(金次郎の二と三志の三)と詠み,窮地の打開を不二孝に求めました。これを最後に道歌の記載がなくなり,休職,失踪へとつながっていきます。金次郎は,小谷三志が優れた人物だということを聞き知って尋ねていきましたが,近所の人も小谷をたいした人とは知らなかったそうです。聖人とされる人が地元ではまったく重要視されていないということは,キリストにも孔子にもみられる特徴だということを聞いたことがあります。確かに,聖書には,キリストが地元では大工の息子だと言われ,奇跡を行わなかったという記載があったはずです。
文政11年,陣屋の仕事は不活発化し,荒れ地開発料の支払いや木綿生産がほとんどなくなりました。文政10年には1,825俵と金次郎着任時の2倍近くに回復していた桜町領の収納が,文政11年は凶作も重なり981俵まで減ってしまいました。その後も横田村の草刈場境界の争い,酒に酔って圓林寺に無礼な行為をした事件などが頻発するようになり,金次郎は解決に奔走したそうです。金次郎は心身とも疲労困憊していたと考えるのが妥当です。文政11年11月7日に横田村の事件は解決したものの,11月16日から12月11日まで金次郎は「ひきこみ候」として陣屋に出勤せず,職場放棄して再び自宅にひきこもってしまいます。出勤拒否です。その後,一旦は職務に復帰するものの,翌文政12年(1829年)1月4日に41歳の金次郎は江戸に出府し20日に村役人と別行動となり行方不明となりました。上記の経過から,金次郎は当時抑うつ状態にあり,煩悶の末,失踪に至ったと私は考えています。金次郎が桜町にもどったのは約3か月後です。3か月と言えばちょうどうつ病が回復するのに必要な期間でもあります。
つづく・・・
*[1] 江戸時代に藩庁が置かれた屋敷であり,この場合、小田原藩が設置した桜町の出張所を示す。
*〔2〕戦国末期に行者角行藤仏によって開かれた「元の父母」を富士山の霊とする民衆信仰「富士講」がある。小谷三志の広めた「不二孝」とは,角行らの信仰を継承した富士講の一派で,天地万物を生んだ神「元の父母」の教えを守ることを行とした。二つなき(不二)道として「孝」を重んじ,孝とは仕えること,報いること,誠を尽くすことと教えた。
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