わるい日があればいい日がある

 調子の悪い日には、我を失い苦しむもの。どうしていいかわからなくなる。ただし、この世は、諸行無常。今日、苦しんだことも、明日には状況が変わっている。そんなことを何度も繰り返しても、また、必要以上にこだわって悩み苦しんでしまうもの。こんなことならこうしてやる。早まるな。明日まで待ちましょう。きっと状況は変わっている。人間の心配の多くは取り越し苦労です。そんなこと何度も経験しているのに。思い出すために名言というのがあるのでしょうか。

諸行無常

 諸行無常は、仏教の根本思想で、万物は常に変化して少しの間もとどまらないということ。この世の現実存在はすべて、すがたも本質も常に流動し変化するものであり、一瞬といえども存在は同一性を保持することができないことをいう。「諸行」とは因縁によって起こるこの世の現象を指し、すべてとか万物といってもいいでしょう。「無常」とは一切は常に変化し、不変のものはないという意味。
 同じようなことをいろいろな方が言っているので並べてみます。

真岡市の二宮神社
真岡 二宮神社

方丈記(1212)  鴨長明(1155-1216) 岩波文庫1989

 ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまりたるためしなし。世中にある人と栖(すみか)と、又かくのごとし。たましきの都のうちに、棟を並べ、甍(いらか)を争へる、高き卑しき人のすまひは、世々を経て尽きせぬ物なれど、是をまことかと尋ぬれば、昔しありし家はまれなり。或は去年(こぞ)焼けて今年作れり。或は大家(おほいえ)滅びて小家(こいへ)となる。住む人も是に同じ。所もかはらず、人も多かれど、古(いにしへ)見し人は、二三十人が中に、わづかに一人二人なり。朝(あした)に死に、夕(ゆふべ)に生るゝならひ、たゞ水の泡にぞ似たりける。不知(しらず)、生れ死ぬる人、いづかたより来りて、いづかたへか去る。又不知、仮の宿り、誰が為にか心を悩まし、何によりてか目を喜ばしむる。その主とすみかと、無常を争ふさま、いはゞ朝顏の露に異ならず。或は露落ちて花残れり。残るといへども、朝日に枯れぬ。或は花しぼみて、露なほ消えず。消えずといへども、ゆふべを待つことなし。(以下、長明の遭遇した災害について書かれている)

<訳>
流れる川の流れは絶え間ないが、しかし、その水はもとの水ではない。
よどみの水面に浮かぶ泡は消えては生じ、そのままの姿で長くとどまっているというためしはない。
世の中の人と住まいも、これと同じなのだ・・・。


野辺山の分流
野辺山

平家物語 作者不詳 鎌倉時代

祗園精舎の鐘の声、
諸行無常の響きあり。
娑羅双樹(しゃらそうじゅ)の花の色、
盛者必衰(じょうしゃひっすい)のことわりをあらはす。
奢れる人も久しからず、
唯春の夜の夢のごとし。
たけき者も遂にはほろびぬ、
偏(ひとえ)に風の前の塵に同じ。

<訳>
祇園精舎の鐘の音には、
諸行無常すなわちこの世のすべての現象は
絶えず変化していくものだという響きがある。
沙羅双樹の花の色は、
どんなに勢いが盛んな者も必ず衰えるものであるという
道理をあらわしている。
世に栄え得意になっている者も、その栄えはずっとは続かず、
春の夜の夢のようである。
勢い盛んではげしい者も、結局は滅び去り、
まるで風に吹き飛ばされる塵と同じようである。

ススキ

往生要集 源信 985年

 祇園寺の無常堂の四隅に、 *玻璃の鐘があって、 その鐘の音の中にもまたこの偈を説く。 病気の僧が、 その鐘の音を聞くと、 苦しみがすぐ除かれ、 さわやかな楽しみを感じ、 三昧に入るごとく浄土に生まれたという。

万物流転 ヘラクレイトス( Herakleitos (前540ころ―?))

「すべては流れる (パンタ・レイpanta rhei)」

 という有名な言葉もプラトンやアリストテレスの批判的解釈を継承したシンプリキオスの言葉であって,彼自身の直接の発言ではない。火や流動についてもたしかに述べてはいるが,それは彼の哲学の一面であって,もっとも重要なのは〈ロゴス〉についての考えである。
出典 株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について

マルクスアウレーリウス
マルクス・アウレーリウス

自省録 マルクス・アウレーリウス(121-180) 神谷美恵子訳 岩波文庫

 時というものはいわばすべて生起するものより成る河であり奔流である。あるものの姿が見えるかと思うとたちまち運び去られ、他のものが通っていくかと思うとそれもまた持ち去られてしまう。4-43

 存在するもの、生成しつつまるものがいかにすみやかに過ぎ去り、姿を消していくかについてしばしば瞑想するがよい。なぜならすべての存在は絶え間なく流れる河のようであって、その活動は間断なく変わり、その係形相因も千変万化し、常なるものはほとんどない。我々のすぐそばには過去の無限と未来の深淵とが口をあけており、その中にすべてのものが消え去っていく。このようなものの中にあって、得意になったり、気を散らしたり、または長い間ひどく苦しめられている者のように苦情をいったりする人間はどうして愚かではないだろうか。5-23

芭蕉庵
芭蕉庵

奥の細道 松尾芭蕉  1689年

月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也。

善の研究 西田幾多郎 岩波文庫 1950

 普通には固定せる物体なる者が事実として存在する様に思うて居る。しかし実地における事実はいつでも出来事である。ギリシャの哲学者ヘラクレイトスが万物は流転し何物も止まることなしと言ったように、実在は流転して暫くも留まるところなき出来事の連続である。p89