逆説的な詩、ニューヨークリハビリ研究所

 ニューヨークリハビリテーション研究所の壁に下の詩が書かれているそうです。もともとは病室の壁に書かれていたものを受付の壁に持ってきたらしいです。作者不詳とされることが多いです。(渡辺和子は、「幸せのありか PHP文庫」の中で、南北戦争 1860-1865 の時に負傷して入院した ロイ・カンパネーラさんが書いたと紹介しています。どうして確かめたのかは不明です。)
日野原重明は、「現代医学と宗教 岩波書店」の中で、同じ詩を紹介しています。作者は示していません。

成功するために力を与えてほしいと神に求めたのに、
慎み深く、従順であるようにと弱さを授かった。・・・・・・1

偉大なことができるように健康を求めたのに
より良きことができるようにと病弱を与えられた。・・・・・2

幸せになろうとして富を求めたのに、
賢明であるようにと貧困を授かった。・・・・・・・・・・・3

世の人々の賞賛を得ようとして権力を求めたのに、
神を求め続けるようにと弱さを授かった。・・・・・・・・・4

人生を楽しめるようにと、あらゆるものを求めたのに、
あらゆることを喜べるようにと命を授かった。・・・・・・・5

求めたものは一つとして与えられなかったが、
願いはすべて聞き届けられた。・・・・・・・・・・・・・・6

神の意にそわぬ者であるにもかかわらず、
言葉に出さなかった祈りはすべてかなえられた。・・・・・・7

私はあらゆる人の中で最も豊かに祝福されたのだ。・・・・・8



原文
A CREED FOR THOSE WHO HAVE SUFFERED

I asked God for strength, that I might achieve
I was made weak, that I might learn humbly to obey...

I asked for health, that I might do greater things
I was given infirmity, that I might do better things...

I asked for riches, that I might be happy
I was given poverty, that I might be wise...

I asked for power, that I might have the praise of men
I was given weakness, that I might feel the need of God...

I asked for all things, that I might enjoy life
I was given life, that I might enjoy all things...

I got nothing that I asked for -- but everything I had hoped for
Almost despite myself, my unspoken prayers were answered.

I am among all men, most richly blessed! 

 

 しかし、この詩は素直に受け入れられるものではありません。普通は、下のようになってしまうのではないでしょうか。

成功するために力を与えてほしいと神に求めたのに、弱さを授かったので、がっかりした。
偉大なことができるように健康を求めたのに病弱だったので頭にきた。
幸せになろうと富を求めたのに、いつまでたっても貧困だった。やる気がなくなった。
世の人々の賞賛を得ようとして権力を求めたのに、 弱さを授かり自暴自棄になった。
人生を楽しめるようにと、あらゆるものを求めたのに、ただ命があるだけだった。絶望した。

 せっかくの素晴らしい詩を台無しにするようですが、希望がくじかれたとき、人間はそう簡単に前向きになれるものではないのが普通ではないでしょうか。たまに、小さな希望がかなえられて少し喜び、また、思うようにいかず、沈んでしまう。そんなことを繰り返しているのが人間でしょう。 そのように浮き沈みしてしまう人間をダメ人間だと否定することもできません。

 これがどうしたら、この詩のように、ガラッと転換して肯定的になれるのでしょう。でも、この詩の中には、どこか、作者が自分にそう思いこませようとしている感じ、迷いが少しあるのかなと感じてしまう部分もあります。

 「求めよ、さらば与えられん」という言葉もあるだけに、なお、複雑です。与えられるのは、求めたものと違うのだろうかと。

 でも、こういうこともあります。

 高校時代に、友人が「人間て失敗すると謙虚になるよな」といったのです。そのことをなぜかよく覚えています。自分で努力して謙虚になるのでなくて、やはり与えられるような気がします。話は脱線しますが、謙虚であることはガンジーも大切だと認めていました。それで、ガンジーの仲間の重鎮がアーシュラム(修道場)のおきての一つにしたらどうだろうかと言うわけです。でも、ガンジーはだめだと言います。なぜか。謙虚へと努力することは、偽善になる危険があるというのです。ガンジーおそるべし。

 また、自分の体験で、ひどく自分という存在を否定されるような出来事があった場合に、不思議と逆にすごくすっきりして割り切れた感じになったことがあります。否定から肯定へ。拒否から受容に・・・。

 大切なことは、いつも逆説的に与えられる、という感じがします。