よい奉仕をするために マザーテレサはなぜ可能だったのか
マザー・テレサ(幼名:アグネス)は、1910年8月26日、ユーゴースラビアのスコピエで生まれました。父親は、建設業及び議員を兼ねる有力な名士で、慈悲深く貧しい人々に思いやりがあったといいます。
徳の高い母との間に、長女アーヘ、長男ラザル、そして、アグネスが生まれ、果樹園のある大きな家で裕福な暮らしを送っていました。しかし、父親は若くして死亡しており、毒殺ではないかと疑っている人もいます。父親の共同経営者が不正を働き、家族に残されたのは家屋だけだったといいます。その後、母親は刺繍の仕事などをして3人の子供を育てましたが、事業は上手に運営されたようです。
アグネスと姉は聖心教会の活動に参加し始めました。12歳のころ、彼女は自分がすでに修道女になる気がしていたといいます。母親も熱心なカトリック信者ですが、アグネスが修道女になるのには反対していました。アグネスは優れた学生で、慎重で注意深い性格であり、周囲からの信頼も高かったといいます。
アグネスは、18歳のときに、家族のもとを去って修道女になることを決意しました。自分のやるべきことは貧しい人々の力になって働くことだと知ったからだといいます。「神がお決めになったのです」と後に語っています。母親に決心を伝えると、永遠の別れを予感して母親は24時間も部屋で祈り続け、最終的には受け入れたといいます。
1928年9月26日、アグネスは、スコピエから列車に乗りました。ザグレブで母親と姉と涙ながらに手を振って別れましたが、その後、生涯会うことはありませんでした。兄のラザルだけは、アグネスがノーベル賞を受賞した1979年12月に、オスロの授賞式会場でアグネスと会っています。
アグネスは、アイルランドの修道院を経て、同年11月には船でインドに向かい、7週間後にカルカッタに着きました。2、3日後に、640km離れたダージリンのロレット修道院に向かいました。(マザー・テレサ愛の軌跡 日本教文社)
この年、1929年、60歳のガンジーは、3月はじめにカルカッタのシュラッダーナンダ公園で、抗議のために外国製衣類を焼いて逮捕され、1ルピーの罰金を払っています。この公園がコルカタ(現在のカルカッタの名称)のどこにあるのか調べようとしたのですがよくわかりません。ガンジーは翌年、サバルマティから79人の同志とダンディまで200マイルの塩の行進を行いました。海岸で塩を集め、法律を破り逮捕されました。アグネスがインドに来たのはこういうときだったのです。
18歳のアグネスがカルカッタを去ってまもなく入れ替わるようにカルカッタでガンジーが活動していたことがわかります。アグネスがガンジーのことを語ったところがあります。「ガンジーがかつてこう言いました。もしもキリスト信者たちが、その信仰に忠実に生きていたら、インドにはヒンズー教を信じる者たちは一人もいなくなってしまっただろう」と。(マザー・テレサ愛と祈りの言葉 渡辺和子訳 PHP文庫)
ガンジーが出会ったクリスチャンの実生活が清廉でないことなどがガンジーには受け入れがたかったのです。ただし、ガンジーは新約聖書もよく読み、「山上の説教」(マタイ5)のところが大好きなようです。彼は、ヒンズー教の経典パガバッド・ギーターはほとんど暗記していたらしいです。
1931年、修道名がテレサとなりました。修練期間が終わると。カルカッタ郊外のセント・メリー校に派遣され、地理や歴史などを教え、1937年から校長として17年間のおだやかな日々を過ごしたといいます。校長といっても、授業をするほか、食料の調達や炊事などもやっていたらしいです。
以後、マザー(神の愛の宣教者会の総長のこと)と呼ぶことにしましょう。人間には屈折点というものがあるものですが、例えば、統合失調症では、ある時期に後から見ると病状の現れた時があります。それは、あたかも、だんだんと熟していったものがついに姿を現す時といっていいかもしれません。マザーの場合は2回ありました。1回目は、修道女になると決めた時、そして、もう1回の時が現れます。
カルカッタからダージリンに向かう列車の中で、それは1946年9月10日、日本が終戦を迎えた翌年。彼女は、はっきりと呼びかけを聞きました。その後、ダージリンで黙想を行う間も声は頭に響いていたといいます。「呼びかけの意味する内容は、とても単純なことでした。わたしに修道院を去ることを命じていました。神は私にもっと何かを求めている。私にもっと貧しくなること、そして神の姿そのものである貧しい人々を愛することを求めていると感じたのです」と言っています。
精神科医だと幻聴との違いが気になるところですが、マザーをよく知るファン・エクセム神父はこういいます。「マザーが聞いた声は、幻覚ではありませんよ。それは神との交わりが、インスピレーションという形であらわれたのです。それでロレットを離れ、自分に与えられた仕事をやり始めたのです。マザーは一瞬たりとも疑問を持ったことはありません。最初から、これが自分の使命だと確信しているからです」。(マザー・テレサ 愛の軌跡 日本教文社)これは、2回目の「召命」であるといいます。マザーは、「一度目の犠牲は、母との別れ。二度目の犠牲は、ロレット修道院を去ることです」と言っています。犠牲については、ガンジーも述べています。(獄中からの手紙 岩波文庫)
このあと、マザーは、ローマの許可も得て、看護法や医薬品の扱い方などを学んでから、スラムでの活動を始めています。「死を待つ人の家」をカルカッタで始めたのです。路上で倒れて死を迎える人を連れてきて、十分な世話をして、死を迎えてもらうホスピスのようなものです。
マザーは、カルカッタの南部にあるヒンズー教の巡礼宿泊所を借り受けて、上記の仕事を始めました。それ以降10万人以上の人々がここで看取られたといいます。彼女は、次々と奉仕活動を広げていくのですが、難局を信じられない工夫、思いつき、実行で乗り越えていきます。二宮金次郎にも似ています。
あなたは、何をしようとしているのかと聞かれたとき、マザーは言っています。「まず何よりもいらない人たちではないと感じ取ってもらいたいのです。この人たちを大事に思っている、この人たちにいてほしがっている人がいるのだと知ってもらいたいのです。少なくともまだ生きていなければならない数時間のあいだに、人間からも神からも大事に思われているのだということを知ってもらいたい。この人たちも神の子たちであって、忘れられてはいない、大事に思って、世話をしてくれる人がまだいて、仕えたいと自分たちを捧げる若い人たちのいることを知ってもらいたいのです」。
「あなたたちは、私が飢えていた時に食べさせ、渇いているときに飲ませ、旅にいたときに宿らせ、裸だった時に服をくれ、病気だった時に見舞い、牢にいたときに訪れてくれた」。義人たちが「自分たちはいつそんなことをしたでしょうか?」というと、王は答える。「まことに私は言う。あなたたちが私の兄弟であるこれらの小さな人々の一人にしたことは、つまり私にしてくれたことである」。(マタイ第25章)
講談社の聖書の注にはこのようなことが記されています。「すべての人のうちにキリストを見るということは、確かにキリスト教の重大な教えの一つである。これによってすべての人、特に貧しい者は「聖なるもの」となる」。
さて、私の関心は、マザーがたいへん困難な奉仕活動をなぜ長年にわたって行うことができたかです。マザーの言葉からそれに迫ってみましょう。
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貧しい人々の中でも最も貧しい人々をキリストご自身の姿として助けていくことにあります。
私たちの聖人になりたいという気持ちが大切なのです。聖なる者になろうという道を選んだ人は、多くのものを捨てること、誘惑に遭うこと、自分と闘うこと、迫害に遭い、多くの犠牲を捧げることを覚悟しなければなりません。
死は悲しいことではありません。私たちが悲しむべき唯一のことは、自分が聖なる者になっていないという事実です。
祈りは願い事ではありません。祈りとは自分自身を神のみ手の中に置き、そのなさるままにお任せし、私たちの心の深みに語りかけられる神のみ声を聴くことなのです。
聖ヴィンセント・ド・ポールという人は修道会に入る人に、「子らよ、貧しい人々こそは、私たちの師だということを決して忘れてはいけません。だからこそ、私たちは彼らを愛し、深い尊敬をもって仕え、その求めることをすべて行うのです」
私がお願いすること。飽くことなく与え続けてください。しかし、残り物を与えないでください。痛みを感じるまでに、自分が傷つくほどに与えつくしてください。
一緒に働いている人たちにいつも言っていること。「余った物、残り物は要りません。私たちが仕えている貧しい人たちは、あなた方からの憐みも、見下すような態度も必要としていないのです。彼らが必要としているのは、あなた方の愛と親切なのです」。
貧しい人々の惨めさ、物質的な貧しさばかりでなく、その精神的な傷口にも私たちは手当てをしてあげねばならないのです。私たちが彼らと一つに結ばれてその悲しみを分かち合う時にのみ、彼らの生活に神をもたらし、また彼らも神に近づいて癒されるのです。
私たちの食物、衣服、何もかも貧しい人々と同じようでなくてはなりません。なぜなら、貧しい人々はキリストご自身なのですから。
病人や貧しい人のお世話をする時、私たちはキリストの苦しんでいる体のお世話をしているのです。
貧しい人たちは私たちを求めています。その人たちを愛するためには、その人たちの存在に気付かねばなりません。この事実についてもう一度考えてみましょう。私たちの家庭の中に、貧しい人々がいることに気づいていますか。
世界中のどこであれ、貧しい人々は、苦しんでいるキリストご自身なのです。貧しい人々の中で神の子は生き、かつ死んでおられます。彼らを通して、神は、ご自身のみ顔を示していらっしゃるのです。
イエスは私たちのもとに飢えた人の姿、裸の姿、淋しい人の姿、アルコール依存者、麻薬中毒者、売春婦、路上の物乞いの姿でおいでになります。
私たちはイエスにしているかのように貧しい人々に仕えてはいけません。彼らはイエスその方だから仕えるのです。
正真正銘の信仰は惜しみない寛大さを伴うはずです。愛と寛容はいつも共に存在します。
ある人がかつて私に、百万ドルもらっても、ハンセン病患者にはさわりたくないと言いました。私も答えたものです。「私も同じです。お金のためだったら、二百万ドルやるといわれても、今の仕事はしません。しかし、神の愛のためなら喜んでします」と。
貧しい人々が求めているのは、憐みでなく愛です。彼らは自分たちの人間としての尊厳に敬意を払ってほしいのです。
数えきれないほど多くの人が、ちょっとでいいからその存在を認めてほしいと願いながら、僅かばかりの愛すら与えられないが故に、生きる勇気を失っているのです。イエスは、そういう人々の姿で、弱っていき、死んでいらっしゃいます。
自分が犠牲となり、自分が傷つくまで人を愛することを恐れてはなりません。イエス様の私たちへの愛は、彼を死まで追いやったではありませんか。
ここで言われている喜びとは、神との一致、神のみ前に生きる喜びのことです。神のみ前に生きているとき、私たちの心は喜びに満たされるからなのです。
私は、親切にしすぎて間違いを犯すことの方が、親切と無関係に奇跡を行うことより、好きです。
平和達成のためには、ます、イエスのような心の柔和さと謙遜さを学ばなければなりません。(マタイ11.29)
ベッドに横たえようとした時、その老女は私の手を取り、美しいほほえみを浮かべました。そして、「ありがとう」と一言言って死んだのです。実に、彼女は私が与えたよりも、ずっと多くのものを私に与えてくれました。感謝にあふれた愛を与えてくれたのです。
そして、私は、この世で役立たずのように見えた人々が、その最も大切な瞬間、死を迎えるときに、愛されたと感じながら、この世を去ることができるためなら、何でもしたいと思っているのです。
私はすべての人、特に苦しんでいる人々の中に、神を見ています。
社会的に疎外され、感情的にも人々から疎んぜられている人々を周囲に見出す時、私はキリストが、ご自身が疎外されて悲しんでいらっしゃるように思えて仕方がありません。
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以上からわかる通り、マザー・テレサが、生涯献身的に働き続けて、超人的な努力や発想で、多くの人々を癒すことができたのは、貧しい人々(経済的な意味や心理的、家庭的、病気であるとか、疎外されていることなどを含む)は、彼女にとっては、イエス・キリストそのものであるからです。喜びであったのです。
何か非常に重要なものを感じると同時に、私がキリスト教徒ではないためか、十分には理解が至らないところがあります。でも、信頼していいのだということを感じます。精神科の病気で長く苦しんでいる方の中にも、聖書をいつも近くに置いたり、マザー・テレサの書物を大切にしている人がいます。今でも、医療者の足りないところで心を癒し続けてくれているのかもしれません。それは尊重しないといけないことだと思います。
私が言いたいことはこうです。マザー・テレサが奉仕できる絶対的な理由が彼女の中にあるということです。しかもそれを公開しています。医療関係者や介護者には、困難な状況でも喜んで奉仕できる個人的な理由が必要だと思います。それがないと、どこかで奉仕をやめるでしょう。裏切ることになるでしょう。自分の意にそぐわない人を避けるでしょう。割の合わないことをしなくなるのではありませんか。奉仕をすることに他の理由があるのではありませんか。どうしますか。