承認されるということ 孤独な男

 昔、京都のお茶屋さんの一軒に某大学教授に連れて行ってもらったことがある。その人もずいぶん前にお茶屋さんに他のお偉いさんに連れてきてもらったことから気に入って、お茶屋さんに入れる地位をやっと獲得したという。そこまでに至る道が大変らしい。何度も通わなくてはいけないし、うまくおかみさんというのだろうか、店主に承認されなければならない。お金も時間もかかるし、店との付き合いが卒なくこなせなければだめだろう。私などはまったくできない。

 正式に承認されても、適度な付き合いを継続しないといけないだろうし、他の店への浮気はまずいだろうし、常にふるまいには気を付けないといけないのだろう。たわいのない話を店主や舞妓さんとして、扇子を飛ばす風雅な遊びなどをするわけだ。その間は世俗を忘れられる。

 そうした遊びができるというのが、ステイタスであると考えられ、楽しめるのでなければやれないことだろう。完全に承認されれば、かえって、いろいろと許され、自由になるのかもしれない。

 そこでのことだ。もたもたした私が店を出るのが最後になった。すると、女将と舞妓さんが、なんだか、私のことをちょっとほめるのだ。きっと、他の人がいなくなったからできるのだろう。教授に嫉妬させても困るわけだ。こうして、承認されて道に入っていくのだろう。

 世の中の男性は、たいてい孤独だし、お茶屋さんに行くような社長さんなんかは特に孤独だろう。家庭で承認されることはないし、職場でも気持ち的に余裕はない。そこに、承認の能力が極めてたけているお茶屋さんに行ったら、ひとたまりもないだろう。銀座でも同じだろう。

 でも、社長さんというのは、能力が少しは高いか、生まれが良いなどがあって、承認しやすいはずだ。ほめるところを見つけるのはそんなに難しくはない。肯定的関心がもたれることによって、社長は毎日復活する。

承認するのを仕事にしている人もいるということだ。そこに嘘があったら、評価されない、承認されないだろう。どのような職業でも本当でなければ、大成しないだろう。本物でないとは、別な動機があるなどという場合だ。

 マザー・テレサも人を承認するが、承認するのは社長さんではない。誰からも承認されたことがない人だったりする。社長は自分には取り柄があると思っている。マザーが承認するのは、自分のことを屍のように思っている人だ。承認しがたい人を承認するには、力が必要だ。それを承認の力と呼ぼう。

 マザー・テレサは、承認されるのを嫌がっていた。宮沢賢治は、デクノボーと呼ばれたいと思っていたし、良寛だってそうだ。そんなことは超越していた。イチローは国民栄誉賞を辞退し続けている。大谷はどうするんだ。栄誉賞をもらった松井を越えてしまっているのではないか?しかし、辞退は問題の解決にならない気がする。辞退したという栄誉が生まれてしまうからだ。だから、因幡の源左は、2回の県知事賞をうけたのだろうし、マザー・テレサもノーベル平和賞をもらったのかもしれない。

 話がまとまらなくなるが、バートランド・ラッセルは、彼の幸福論の中で、互いに褒め合う夫婦の問題点について述べているくだりがある。それが、とてもなぜか印象的だ。