スピノザから学ぶ自由な生き方 4
第3部 「感情の起源と本性について」に行きます。なるべくかみ砕いていきましょう。スピノザは、多くの人たちが自分の意志で自分の行為を決めていると考えているが、それは間違った思い込みであるといいます。そして、人は人間が無力であったり不安定であるのは、人間本性の欠陥であると考える傾向があるが、それも間違いであるといいます。このようにスピノザは、人が誤って認識していることを明確にしていきます。私たちはほとんど毎日間違った認識のもとに活動しているのかもしれません。虚妄(思い込み)のなかに生きているのかもしれません。スピノザはそして、憎しみ、怒り、妬みなどの感情も、他の個物と同様に、自然の必然性と力から生まれるといいます。
人間は、多くの場合、あとで後悔するようなことをやるし、また、反対の感情に動かされているときには、より善いものをみていながらより悪いものへと屈従するのを経験していなかったとしたら、人間の行為はどれをみても自由であるという彼らの妄信を抑えるものは、何もないであろうと言います。そして、酒に酔っている者は、通常ではしゃべらないようなことをしゃべり、妄想に取りつかれた者、おしゃべり女、子供が、実際にはやむにやまれず口を開きしゃべっているのに、それが精神の自由な決意によっていると思い込んでいるといいます。彼らが自由だと思い込んでいるのは、行為を決定する原因について無知であるということだと言います。精神の決意は衝動以外の何物でもなく、したがって身体の状態によってそれだけ変化に富むと言います。私たちは、何ものかに突き動かされて行為したり考えたりしているのに、自分の意志で決定していると思い込んでいるというのです。なぜそのような認識になるのでしょうか?
注には、われわれの行為は、意識を超えた何ものかによって制約されているとスピノザが考えていたとなっています。スピノザがこのように無意識のことを考えていたのは1660年前後のことですね。フロイトが無意識を考えたのは、1900年前後ですから、フロイトの250年ほど前に、スピノザは、人間の行為は、無意識によって左右されている、身体状態にも動かされているということを知っていたのです。フロイトは、エチカを読んだのでしょうか。フロイトもユダヤ系の人でしたね。フロイトがスピノザから影響を受けていたとしたら大変なことですね。フロイトの著作のどこかにあるでしょうか。いや書いてないでしょうね。
スピノザは続けます。あらゆるものが自分の存在に固執しようとする努力は、そのものの現実的本質にほかならないと言います。また、われわれは、ものを善と判断するから、そのものへ努力するのでなく、むしろ、反対にあるものを善と判断するのは、そもそもわれわれがそれに向かって努力し、衝動を感じあるいは欲求するからであるといいます。そう、これは、前にも述べましたが、二宮金次郎も同じように考えています。
喜びとは、精神がより大きな完全性へ移行するような精神の受動と理解し、悲しみとは、精神がより小さな完全性へと移行するような精神の受動と理解すると言います。
このようなことから、スピノザはこういます。愛は、外部の原因を伴っている喜びであり、憎しみは外部の原因を伴っている悲しみである。
さらに、自分の憎んでいるものが否定されることを想像する人は喜びを感じるであろうと言います。なんとまあ生々しいことです。これは、哲学なのでしょうか?心理学なのでしょうか?スピノザは演繹していったのでしょうか?それとも現実的な経験からの着想が先に生まれて、後から、定理を構成していったのでしょうか?私は後者が優位であったのではないかと思います。レンズを磨きながら、発想を重ねていったのではないでしょうか。レンズ磨きのようなリズムのある反復作業は、創造的思考のためにはとてもいいのではないでしょうか。歩くのと同じように。その間に浮かんできた考えを書き留めたりしたのではないでしょうか。
妙好人の浅原才市の場合は、同様に下駄を作りながら、木を削りながら(これも反復作業ですね)、浮かんできたものを鉋屑に書き留めて歌を作っていたらしいです。仕事の途中にこういうことができるのは、特殊な仕事に限られるように思います。フロイトの面接の仕方は、寝椅子に横になった患者からはフロイトが見えません。何をしているのか見えなかったのです。これは精神科の面接として望ましくない、患者に不安を与えるという人もいます。しかし、フロイト自身に安心を与えたばかりか、フロイトの発想のためには必要な面接方法だったのかもしれません。もし、面接の技法を高め、そこから発想を得ていくという形をとりたいのなら、どうでしょう。これからキーボードに向かう形式の面接の中でどうしたらそれが可能でしょうか。面接と違う発想が浮かんできても面接もうまくこなせるにはどういう形式をとればいいのかと考えてしまいます。
すぐれた発想というのは、他のことをしているときに出てきたりするようです。湯川秀樹は寝入りばなの発想だったのではなかったかと思います。もちろん、起きているときに考えて考えて研究しているわけですが、本当に大切なポイントは、他のことをしているときにふと出てくる、偉人の場合、そういうことになるのではないでしょうか。仏者の悟りなんかもそうではないでしょうか。アリストテレスほか、歩きながら考える人も多いですね。
スピノザにもどりましょう。もし、ある人がわれわれの愛するものに喜びを与えていると想像するならば、われわれはその人を愛するように動かされるだろう。これに反して、人がわれわれの愛する人を悲しみに動揺させているのを想像したら、その人を憎むように動かされるであろうとスピノザは言います。それはそうでしょう。そんなに難しく言わなくてもわかります。また、あわれみを他人の被害を見て生じる悲しみと定義できるとしています。また、彼は、自分の憎むものが悲しみに動揺することを想像する人は喜びを感じるであろう、もし、反対にその同じものが喜びに動かされることを想像する人は悲しみを感じるであろうと言います。このような憎しみの感情は嫉妬の感情に属し、嫉妬は憎しみ以外の何物でもないとしています。
「傲慢」とは、人間が自分自身を正当以上に値踏みすることから生じてくる喜びであり、他人を正当以上に値踏みすることから生じることに「買いかぶり」があるとしています。他人を正当以下に値踏みすることから生じる喜びは「見くびり」といわれるとしてます。
定理31の注には,自分の愛するものあるいは憎むものをだれもが承認してくれるように欲するこの努力は実は野心である。このことから,だれにも他人を自分自身の気持ち通りに生活させようとする気質があるのを知る。だから,だれもがそろってこのことを要求することが,互いに妨害となる。また,誰もがだれからも称賛されたい,愛されたいと願うことが,たがいの憎しみ合いを生むといいます。ほんとだ、ほんとだ、競争、競争。
定理の32はこうなっています。もし,誰かが独占的に何かを楽しんでいるとすれば,われわれは,彼にそのようなものを独占させないように努めるであろう。と言うのは,楽しんでいるものをわれわれは愛するだろうし,また,それによって楽しもうと思うだろう。だから,他人がこの同じものを楽しんでいるのをみると,それが自分の喜びの妨害になると想像する。したがって,われわれは,ある人が同じものを独占しないようにつとめるであろう。このような事情から,しばしば逆境にいるものに憐みを示し,順境にいる者に妬みを持つのが人間の本性であり,だれかが独占していると想像するものを自分自身も深く愛していればいるだけ,その憎しみが大きくなるのは明らかである。また,人間は妬み深く,野心的であるという結論も導き出されると言う。
また,人は自分が愛しているものから愛し返されることに努める。愛する者が自分に対して大きな感情で愛し返してくれていると想像するならば,われわれは大きな誇りを感じるであろう。スピノザはさらに憎しみや嫉妬についても述べます。
もし,誰かが自分の愛しているものを憎み始め,その結果,愛が全く消え失せてしまうならば,それを全く愛していなかったときよりも,憎しみははるかに大きくなるであろう。
人に憎しみをもつものは,自分の憎むものに禍をもたらすために,自分自身にもっと大きな禍が降りかかってくる心配さえしなければ,憎むものに不幸をもたらすようにつとめるであろう。また,反対に,ある人を愛するものは,同じ法則から自分の愛するものに親切をなすように努めるであろう。
ここで,スピノザの言う善とは,喜び,望みを満足してくれるものだという。悪とは悲しみであり,望みを妨げるものである。何ものかを欲求するとき,それが善だからというのではなく,我々が欲求するから,善いということになるという。我々が背を向けるものを悪としたのである。このようなことから,人は各自の感情によって判断したり評価したりすることによって,何が善で何が悪かをきめることができる。このようにして,吝嗇家は金満であることをもっとも善だと考え,反対に金が不足していることを最大の悪と判断する。ところが虚栄心の強いものは,名誉ほど強く欲求されるものはないし,恥辱ほど怖れららる物はない。さらに,嫉妬深い人にとっては,他人の不幸ほどこころよいものはなく,他人の幸せほど耐えられないものはない。また,同じように人は,おのおの自分の感情によって,あるものを善とか悪とか,役立つとか役立たないとか判断する。
スピノザは,さらに,自分のほしいものを欲求しないようにしむけ,あるいは欲求しないものを欲しがるようにしむけるような感情は,臆病と呼ばれるという。したがって,臆病とは,一種の怖れであり,人がそれによって,やがてふりかかると予見される悪をより少なく切り抜けるように対処する場合に生ずる怖れである。
それから,怒りの感情にうつります。われわれが憎む人に禍をもたらそうとする努力は,怒りとよばれる。それに反して,加えられた禍に報復しようとする努力は復讐といわれる。
もし,誰かが他のものから愛されていると想像し,しかも自分にはそのようにされる原因が何もないと信じているならば,彼はその人を逆に愛するだろう。
愛や虚栄心への望みに動かされて,人に親切をなしたものは,もし,その親切が恩義を感じる気持ちもなく受け取られるのを知ると,悲しみを感じるであろう。
定理43はこうである。憎しみは,憎しみ返すことによって増大し,また逆に愛によって除去されることができる。
愛によって完全に克服された憎しみは,愛に変わる。
定理46 もしある人が,自分と階級や人種を異にするだれかによって喜びあるいは悲しみをうけ,しかもその喜びあるいは悲しみの原因として,階級や人種という普遍的な名称のもとで考えられるものを意識するならば,彼はたんに彼に動揺を与えたその当人ばかりでなく,また,その人が属する階級や人種のすべてをも,愛しまたは憎むであろう。
定理47 われわれの憎む者が否定されたり,あるいは他の禍をこうむっているのを想像することから生じる喜びは,必ず心の悲痛を伴っている。