マザー・テレサ その知られざる苦悩
偉人のうつ病について研究してきた。二宮金次郎、石田梅岩、トルストイ、ヘッセ、白隠・・・・。多くの偉人にうつ状態がみられたが、偉人どころか聖人と認定されたマザー・テレサには、心の闇はないはずだった。彼女は、考えられないほどの犠牲を払ったが、神に祝福された人間であって、光に包まれた、これ以上ない魂の平穏の中で過ごし、悩みも不安も虚無感も超越した世界に住んでいる。そう思っていた。
現に彼女の伝記とか、語録、講演録などをみると、すべての困難を克服しているようにみえる。ところが、彼女の私的な書簡をもとに編集された「マザーテレサ 来て、わたしの光になりなさい!」を読んでその考えは間違っているということが分かった。彼女は長期に渡り深い心の闇を抱えていた。そして、それを隠しながら、大事業をすすめていったということを。
よい奉仕をするために なぜマザーテレサは可能だったのか もお読みください。
1910年(明治43年)8月26日、ユーゴースラビアのスコビエで、メアリー・テレサ・ボワジュは生まれた。父親は建設業や議員をしていた。慈悲深く、貧しい人々に思いやりがあったという。二宮金次郎の父親もそうだった。1917年父親が急死し、共同経営者の不正により、家族には家が残されただけだった。毒殺だったという説もある。その後、母親が刺繍の事業を始め、それは成功し3人の子供を育てることができた。マザーテレサの後半生は、優れた事業家のそれだともいえるが、その才能は、両親から遺伝したのかもしれない。
12歳の時にテレサはすでに、修道女になる予感がしており、18歳になった時には修道女になろうと強く決心した。それは、家族との永遠の別れを意味する。打ち明けられた母親は、なかなか受け入れることができなかった。その別れのつらさは想像もできない。
1928年9月26日、母と姉にとともに、スコビエからザグレブに向かう列車に乗った。そして、ザグレブでわずかな日を過ごし、永遠の別れとなった。「神がお決めになったのです」と彼女は言ったそうだ。そして、彼女は修練を経て船旅でインドのロレット修道院にいく。マザーは順調に教師としての仕事を行い、有能な彼女は、その後、インドのコルカタでセント・メリー校の校長をするまでになった。
ところが、1946年9月10日、修養のためにダージリンに向かう列車の中で、内なる呼びかけの声を聴く。その声は、修道院を去って、神の姿そのものである貧しい人々を愛することを求めたという。テレサは自分の使命を自覚し、それを実行に移そうとするが、カトリックの世界には神父、司祭、大司祭などの序列が決まっており、突飛に思えたマザーの考えをそう簡単に許すことはできなかった。そのため、かなりの時間を要したが、彼女は粘り強く説明し交渉を続ける。
その後、ほとんど無一文で、単身で始めた教団は、急速に発展して世界中に広がった。恩恵を受けた人々は数知れないだろう。事業は順風満帆にみえるし、彼女の発する言葉には迷いがないようにみえる。彼女は必ず祈りの時間を設け、神との交流を深めていたが、実際の生活は、組織トップとしての孤独、重い責任、休む間のない多忙、プライバシーのない生活など、精神衛生からみると決していい生活とはいえなかったろう。
テレサが日本を訪れたとき、通訳したのが、カトリック系の大学の学長をしていた渡辺和子だが、彼女自身うつ病で入院した経歴を持つことは以前にまとめた。
彼女は、マザーが睡眠時間を削ってでも祈っていた姿をみている。ただ、渡辺は、マザーが人前でないときに、厳しい表情をしていたと書いている。これが、マザーの闇の一端なのかもしれない。
そんなわけで、マザーの心の闇をみていきたい。先に挙げた書籍から抜き出してみる。マザーの精神安定剤は、祈りと、上司である神父や司祭に対する内面の告白、会話、手紙を通じてのではなかったかと思う。彼女の手紙は、あまりにも赤裸々で、包み隠さず内面を語り、遠慮ない依頼もする。手紙を破棄してくれと彼女がいうのも理解できる。普通、手紙はたいてい形式的で、要件の伝達などを目的とするものだが、彼女の手紙は全く逆だ。
16世紀のスペインの聖ヨハネが「暗夜」と言った体験は、多くのカトリックの聖人たちに共通だそうだ。禅宗における禅病に似たようなものなのかもしれない。ロレット修道会でのテレサは、優しさ、熱意、ユーモア、組織力、リーダーシップを高く評価されていた。その外観とは異なり、内面には試練、闇を抱えていたが、周囲には分からなかったようだ。
1947年スコビエの神父に手紙を書いている。「私の霊的生活が、バラの花を散りばめたようなものと、お考えにないでください。私の道に、バラの花などほとんど見られません。全く逆で、共にあるものは「暗闇」です。・・・私は地獄で終わるのでないかとさえ思うのです。・・・・ただ苦しんでいるだけとはお考えにならないでください。いいえ、苦しむ以上に声をたてて笑っています。・・・私のためにお祈りください。私はイエスの愛をほんとうに必要としているのです。・・・・」
この体験の理由は、著者によれば、感覚的満足への執着から解放されて、神がその光と愛を伝達する一方、不完全な魂はそれを把握できず、闇、苦痛、乾燥、空虚として体験するという。神の不在と空虚は見かけだけの事というが、大きな苦しみの源となるという。
さらに、浄化には無味乾燥の不毛状態が伴い、神に放棄され拒絶さえたと感じる。神に対する愛を認知できないことはさらに苦しいことだという。この辛い浄化によって、人はあらゆる被造物からの完全な離脱に導かれ、神のみ手に適合した道具となり、純粋に、私心なく神に仕えるため、キリストとの高度の一致に到達するという。もちろん、理解は困難だ。
1946年9月10日から1947年の中頃まで、テレサは、内的な声を聴いた。これは、イエスからの声であり、イエスが話しかけたという。彼女との間で感動的な美しい対話が続いたという。「わたしの花嫁」、「わたしの愛しい者」とイエスは働きかけ、テレサも「わたくしのイエス」、「わたくしだけのイエス」と応えたという。彼女は、これらのことを記録していたらしい。そのために正確な日付が分かっているのだろう。そして、イエスは、「来て、来て、貧しい人々のあばら家に、わたしを連れて行きなさい。来て、わたしの光になりなさい」。こういうのを召命というらしい。その後、この召命が本物かどうか、長い年月、テレサは神父たちに試され、偉い司教などに、それについて考えることをやめなさいとまで言われた。
テレサによると、声の内容は非常に具体的だ。「死ね」とかいう単純な幻聴とは異なる。「あなたは私にどうぞお望みのままにわたくしをお使いくださいと言った。今、わたしは行動したい。わたしにさせなさい。わたしのかわいい花嫁、かわいい娘よ。恐れてはいけない。わたしはいつもあなたとともにいる。あなたは今も苦しんでいる。これからも苦しむだろう。しかし、もしあなたが十字架につけられたイエスの花嫁であるならば、心の中でこうした苦悩を耐えなければならない。・・・わたしのもとにみすぼらしいストリートチルドレンの魂をください。このかわいそうな子供たちが罪に汚れるのを見て、わたしがどれだけ傷つくのかをあなたが知ってさえいれば・・・・。裕福で有能な人々の世話をする多くの修道女を抱えた修道院がある。しかし、わたしの非常に貧しい人たちのための修道院は皆無だ」。さらに具体的で面白いのは、「わたしが25年間、大司教に与えた恵みへの感謝として、このことをわたしに与えるよう、彼に願いなさい」。
ところがペリエ大司教は、非常に用心深く、祈りと省察と相談の時間が必要であると彼女に告げただけだった。彼女が許されたのは、1948年の1月8日なので、約1年半かかっている。彼女はダージリンに滞在中、ひどい絶望感に襲われ(5月に5日間)、「考えた仕事のアイディアがばかげていて、ロレット修道会と院長たちへの裏切り行為であるように思えたのです」と言っている。
1947年、テレサはイエスの声を聞くだけでなく、幻視のような体験をしている。
①大群衆がいて「私たちを救ってください、イエスの所へ連れて行って」
②大群衆、彼らの顔に深い悲しみと苦しみがあった。マリア様がいて、その顔を見ることはできなかったが、「彼らの世話をしなさい、彼らは私のものです、彼らをイエスのもとに連れていき、イエスを彼らのもとに連れていきなさい。彼らにロザリオを唱えることを教えなさい」
③大群衆、暗闇の中、主は十字架にかかり、マリア様と小さな子供の姿のテレサ、主はこういわれた。「私はあなたに頼んだ。・・・彼らの世話をし、わたしのもとに連れてくることを拒むのか」それ以来、テレサは聞いたり見たりすることはなかったという。テレサが幻視について説明するのはここだけだという。ヴァン・エグザム神父への長い手紙の中にある。
1948年12月21日、テレサは初めてスラムに入っていった。新しい生活は、彼女の予測通り「大部分、苦しみしかもたらさなかった」「寂寥感の苦しみ」しかし、1年間で、医師も無償で協力し、シスターも増え、子供たちはサンデースクールに350人も集まるようになった。
しかし、ロレット会の総長は、シスターたちがテレサに接触することを禁じた。また、昔の同僚である数人のシスターからの中傷、悪魔の仕業とされたこともあった。やがて、手紙により、ロレットの管区長との間は良好となったが。
1952年にペリエ大司教は、路上で死を迎えようとする人をケアするホームを訪れ、シスターたちが献身的に働くのをみて、賞賛した。しかし、マザーテレサは非常に多忙であり、自分のための時間が1分もないと言っている。
「わたくしの魂は深い闇と絶望の中にいます」と大司教に手紙で語った。1955年にも「自分では表明できない深い寂しさが心のなかにあります」ペリエ大司教は、大部分の聖人たちが同じような体験をしたと励ましたり、過労あるいは身体的疲労の結果ではないかとも伝えた。しかし、この本の作者は、明らかに神と、彼女が信頼していた人々との距離からくる結果だったとした。
ところが、彼女は引き続き楽し気に情熱的であった。この態度は単なる表面的喜びでなく、深い霊的な喜びであったという。そして、会員には、「喜びに満ちた犠牲者でなければならない」と伝えている。
しかし、テレサをしばしば苦しみが襲う。この別離、恐ろしい空虚感、神不在の感覚があると1956年のペリエ神父への手紙でも語っている。また、「せめて数日間だけ神がこの闇をわたくしの魂から取り挙げてくださるように」
「神に望まれない、拒絶されて空虚であり、信仰も愛も熱意もないのです。人々の魂にも魅力がなく、天国の意味も皆無で何もない空間のように思います。「暗闇の深さを表わす言葉がありません」「神に対する思いは痛いほどあるのに、闇はさらに深くなっています。私の心の中には何という矛盾があるのでしょう。内面の痛みはあまりに強いので、すべての評判にも人々の評価にも何も感じません」。
1958年10月 教皇ビオ12世の葬儀の折に、もし、神が修道会のことをお喜びだったら、その証拠をくださいと教皇様にお祈りしたという。すると、その場で、あの長い闇、喪失感、寂寥感、十年間の奇妙な苦しみが消え、得も言われぬ愛と喜び、完全な愛の一致に満たされたと語っている。
ところが、それはつかの間の平安だったようだ。1959年7月、ピカチー神父に送られたのは、「わたしはたったひとりです。闇はそれほど暗く、わたくしは孤独です。望まれず、放棄された者。愛を求める心の孤独感は耐えられません。わたくしの信仰はどこへ行ったのか。心の奥底にも、空虚と暗闇以外には何もありません。神よ、この未知の痛みは何と辛いのでしょう。その痛みは絶え間なく続きます。
さらに、ピカチー神父に「なぜわたくしの魂には、このような痛みと闇があるのでしょうか。時には、『もうこれ以上、我慢できない』と言っている自分がおり、そのすぐ後で『ごめんなさい。あなたのお望みになることをなさってください』と言うのです」と伝えている。彼女の混乱ぶりが分かる。
同年9月の手紙でも「わたくしの心には信仰も愛も信頼もありません。多くの苦痛があるだけです。不要者としての痛みです。・・・「仕事は魅力も情熱も与えません」
このようなことは、とてもシスターたちには言えない。シスターたちには、「不親切によって奇跡を起こすよりも、親切によって間違いをする方を好みます」などの指導を明確に行っている。
12月には、「昨日すべてがうまくいったことを感謝します。シスターたちも、子供たちも、ハンセン病者たちも、病人も・・・今年は住めての人が、とても幸せで満足していました。本当のクリスマスです。それなのに私の内面には闇と葛藤と激しい寂寥以外に何もありません」。
1960年10月に1929年1月に初めてインドに来てから、米国に向かった。ニューヨークのカトリック救援団体の全国大会に招待したためだった。テレサは「アメリカで何千もの立派な人の前にいる私を想像してください。恐れと恥ずかしさで死んでしまいそうです」と語り、講演はうまくいったにもかかわらず、「もっとも辛い従順な行為でした」とペリエ大司教に伝えている。
1961年知り合ったヌーナー神父への手紙では、1949年あるいは1950年以来、この恐ろしい喪失感、未知の暗闇、寂寥感、神に対する絶え間ない欲求などが、わたくしの心の奥深くに痛みを与えています。・・・わたくしが感じるのは、神がわたくしを望まれないことです。神は不在です。・・・この責め苦と痛みを説明できません。・・・神はその愛する子を不要な者として放棄されました。
ヌーナー神父はいいます。彼女の側に霊的無味乾燥を説明できる欠陥はない。すべての霊的巨匠たちが知っている暗闇です。それに対する処方はありません。人類の救霊のために世界の重荷を背負って苦しまれたイエスとの一致の確信にあるだけです。・・・この試練に対するただ一つの答えは、神に対する完全な委託と、イエスとの一致のうちに暗闇を受諾することです。
ヌーナー神父の回答は、テレサを救うことになった。テレサは次のような手紙を書いた。「過去11年を通して初めて、わたくしは暗闇を愛するようになりました。・・・それを仕事の霊的一面として受け入れることを教えられました。イエスは、もはやご自身では苦しむことができないので、わたくしのうちで苦しむことを望んでいらっしゃることに深い喜びを、今日本当に感じました。今まで以上に神に自分をゆだねます。
このことを作者は、彼女の暗闇は、彼女が奉仕していた人々との一体化であった。彼女は不要者として遺棄され、そのうえ、神に対する信仰なしに生きる結果として、彼らが体験していた深い痛みに導かれていた、と書いている。
彼女の心の闇が、イエスのご受難への特別の参与であると認識した時、彼女の生涯の救いの体験であった。これ以降、テレサは、暗闇を彼女の召命の不可欠な一部として愛し始めたという。イエスはご自身の苦痛を彼女に再体験させ、痛みがイエスのものであったから、彼女はそれを身に受けることで幸せであったという。
ところが、その後の手紙でも、テレサは、闇があまりに暗く、痛みはあまりにも深いと語る。また、「自分は空虚で、疎外された不要者なのです」。それで、ヌーナー神父と会うのもことわり、「わたくしの魂は氷の塊のよう」とまで述べて、「会っていただく価値もない」というように述べている。
その後も「愛の中にいながら愛することができない、自分を費やしているのに、全くの暗闇にいる」と言います。
1969年8月の手紙では、「わたくしの頭は全く問題ないのですが、ただ朝、疲れを感じるのです」
1975年、15か国、85の修道院に千人以上のシスターを数えて、神の愛の宣教者会は創立25周年を祝った。過去6年間彼女は一言ももらさなかったが、容赦のない内的暗闇は彼女の魂に影を落としていたという。
微小妄想、虚無妄想、アンヘドニア、自責・・・・彼女の症状は、うつ病といってもいい。しかし、普通うつ病だと、仕事はできないのが普通だが、彼女は事業を着々とすすめて成功に導いている。しかも断続的に25年以上もうつ状態が継続している。いったいどうなっているのか?
彼女がうつ病になる条件は十分すぎるほどそろっている。睡眠時間を削るほどの多忙。心身の疲労。重い責任と重圧。過剰なほどの献身。休息のなさ。趣味もない。プライベートな時間のなさ。心を許すパートナーもいない。あるのは、キリストとの精神的な(非実在の)つながりと、彼女の上司に当たる神父のみ。彼らも彼女のような人間に接したことはなく、理解の限界を超えている。
シスターたちに微笑みなさいと言ったマザーテレサ自身は、ほとんどの場合に、深い心の闇を抱えながら、無理して微笑んでいたのだ。
母親との別離、ロレット修道会との別れ、プライベートな生活のなさ、休息のない事、趣味もなし。恋愛もなし。結婚もなし。子孫もなし。一言でいえば割の合わない人生だ。彼女は、とてつもない犠牲を払ったが、得たものは何だったのか?繰り返すが、いったいどうなっているのか?
わたしにはわからないし、彼女自身にもわからなかったかもしれない。ただ、多くの人が救われ、自分の価値を再び感じられたことは事実だろう。