鷹山、金次郎、方谷 人間関係
鷹山の場合
人生は人間関係でできているといってもいいでしょう。鷹山の人間関係もまた暗く深いです。
藩主重定の側近である森 平右衛門は、藩の中で徐々に台頭し、郡代所頭取となりました。藩政改革のために竹俣政当綱(まさつな)などの重臣を処分し、その他の経済対策も行います。しかし、そのうち、親戚や側近を取り立てて、独裁的に権力を握り、豪奢な生活を送って批判を集めるようになりました。
藩の経済状態が思わしくないのに、重定は能や乱舞に熱中しています。それを家来が諫言しようとすると森が制止するという構造になっていました。森も豪奢に遊んでいるわけですから、重定が遊んでいるの方がいいのです。現代でもあることです。
1763年、重定が江戸に滞在した2月、江戸家老に復帰していた竹俣は、単身、米沢に帰り、家老ら何人かで、森を二の丸会議所に呼び出しました。長い時間をかけて画策したのでしょう。竹俣は、税金のことなど17つの罪状について詰問し、退席しようとする森を刺殺したというからすごい。まさか、殺されるとは思ってなかったのではないでしょうか。しかも、同様のことがやがて再現されようとするから不思議です。
重定は、竹俣など4人から、クーデターの報告を受けますが、ただ賛意を示すという無気力さだったらしいです。場合によっては、竹俣らを打ち首にする可能性だってないとは言えないでしょうが、竹俣らは重定の心理を読んでいたのでしょう。
しかし、10年後、鷹山に最大の危機が訪れます。1773年、鷹山の改革に反発する重臣7人が鷹山に面談を求めました。上述のクーデターのように、彼らは七名連署による訴状を提出しました。改革派の行為を非難する52か条に及ぶ訴状では、鷹山派の竹俣の施政や儒学者の細井平洲を呼びよせたことの疑義などがあったとされます。彼らの総退陣を要求したものでした。長時間にわたって、鷹山を攻め立てたようですが、夜になり、重定が声を荒げて退出を命じ、7人の重臣は退出しました。以降は、病気と称して彼らは登城しなくなりました。
鷹山は場合によっては殺されていたかもしれません。それくらい危険な状況でした。不思議なものです。ここで鷹山を救ったのが、ダメダメと思われていた重定だったのですから。重定は自分でも自己評価は低かったかもしれません。投げやりだったかも。そんな重定が鷹山の力になったのは、鷹山がいくら重定がダメ人間だと思われても、恩を感じることができ、孝を貫いたからかもしれません。好きな人間だけを愛する、立派な人だけ大切にするというのではなかったのです。キリスト教にも通じますが、逆説的な愛の形と言えましょう。
温和な鷹山はじっくり考えたのかもしれません。しかし、藩主をつるし上げるなど言語道断です。鷹山は、藩の重役を呼び出し、自分に過誤のないことを確認し、訴状は虚妄の言として、七家を登城させ、2人に切腹、家名断絶、5人に減封、隠居閉門。そして、首謀者だった儒者である藁科立沢は斬首としました。藁科は同じ儒学者の細井が取り立てられたことにがまんならなかったのでしょうか。
これは、周囲の人間に大きなインパクトを与えたと思われます。民を大切にする鷹山を侮っていた人々が多くいたのです。彼らは鷹山のことをわかっていなかったのでしょう。しかしこれで終わるわけではありません。やがて竹俣が堕落していくのですから、本当に人生はわかりません。詳しくは関連書籍をお読みください。ここでも鷹山は個人的な情と藩主としてするべきこととの間で悩んだでしょう。しかし、きっぱりと竹俣には引退してもらいました。彼は要所要所で原則を貫いた人間でした。
金次郎の場合
青年期の金次郎は、勉強するしか時間がなく、「大学」(おそらく朱子の編纂した)を声に出して読みながら、柴を運んでいました。そんな金次郎が農民の間で理解されるわけはなく、「キ印の金次郎」とか呼ばれていたわけです。藩主である大久保忠真には認められたものの、地元では後年になっても、どちらかといえば受け入れられなかったのです。残念なことです。何か人間というものの卑劣な面を感じさせます。イエスもそういうことをわかってました。金次郎自身も地元では受け入れられないという法則を知っていました。
金次郎の人間関係の最大の障害は、上司という立場で桜町に赴任した豊田正作です。彼は、農民出身の金次郎に対していろいろと妨害します。頭がおかしくなりそうなくらいに困らせるわけです。小田原からわざわざ栃木県の桜町に豊田は赴任させられるのですから、問題はもともとあったのではないでしょうか。本当に金次郎は頭がおかしくなってしまいます。それは、彼のおかしな道歌に現れていますし、辞表を出すに至り、さらに、失踪までしてしまいます。
この失踪の解釈はいろいろあるようですが、私は、うつ状態になって、逃避してしまったものと思っています。最終的に解決に導いたのは、成田山新勝寺での開眼、農民たちから支持されたこともありますし、3か月間かかって私はうつ病が治ったのではないかと思います。藩主の大久保忠真は、金次郎を評価していたものの、重臣たちへの遠慮がありました。しかも、幕府で高い地位にあり多忙であったこともあるのでしょう、金次郎を現実的に強く支えてくれるとまではいきませんでした。
鷹山と異なり、金次郎には学問をする環境などなかったわけですが、儒教や数学をどうして身につけたのか不思議です。細井平洲のような人は金次郎のまわりにいなかったように思います。
豊田正作は、小田原に戻された後、やがて、金次郎の信奉者になっていくようです。不思議です。鷹山の場合の竹俣と同様によくわかりません。偉人の周りではこういうことが起こるのでしょうか。
金次郎の場合、優秀な弟子を多く育てました。二宮翁夜話があります。多くの講義を行って考えを伝えました。よりよく生きるために、金次郎から学ぶことはたくさんあります。
方谷の場合
前にも述べたましたが、方谷は精神的に不安定な妻との関係が最悪であり、ついに離縁に至りました。儒教を奉じ、仁とか恕とかを大切にしていた方谷にとって苦渋の決断だったと思われます。方谷の人間関係の問題の一番はそのことでしょう。金次郎も1回離婚しましたが。
丸川松隠から紹介されて 23歳時に京都遊学した際、朱子学の寺島白鹿のもとで方谷は学ぶのですが、カルチャーショックもあったのか、学問上の挫折をして、自らを暗愚、不才とし満身創痍となってしまったらしいです。うつ状態です。
やがて、方谷は、陽明学に目覚め、白鹿と対立しますが、すでに師の技量を越えていた方谷は朱子学と陽明学のそれぞれの弊害を救って中正の道を求めたいという気持ちを述べ、けっきょく白鹿は方谷を受け入れることになります。やがて、白鹿は方谷のもとに息子をあずけて学ばせることになります。
ところで、陽明学の祖である王陽明は、日本の明治維新に多大な影響を与えたのですが、彼もまた、若かりし頃に「重症のノイローゼ」に陥ったといいます。朱子の「一草一木みな理を含んでいる」という言葉の理を把握しようとして悩み沈鬱な日々を送ったと言います。
方谷は、江戸の佐藤一斎に学ぶうちに徐々に陽明学の方向に進んでいきました。ただ、書籍によって理を悟るのではなく、実践との一致を重んじる方向に踏み出したようです。丸川松隠と佐藤一斎は共に朱子学を学んだ旧知の仲だったのですが、そのような方向へと進んでいったのです。
朱子学に対する懐疑と不信は、日本人の知識人の多くに芽生えたそうですが、貝原益軒の最晩年の書にも大疑録があります。私は読んだことはありませんが、朱子学者である益軒が朱子学への疑義を述べたそうです。
さて、方谷の人間関係で特筆するべきことは、江戸の佐藤一斎塾で、佐久間象山を追い越して塾長になったことです。象山は憤懣やるかたなかったはずです。松代藩の天才だったわけですから。負けるというようなことが考えられなかったでしょう。しかし、もちろん、方谷は、象山の才能を認めていたわけですが、自分の才を誇り、自己顕示欲が強い象山の性質を心配していたようです。
佐藤一斎が、塾長に、象山でなく方谷を選んだのは当然です。師をうやまい、儒教の教えの通りにふるまう方谷には安心感があります。信頼されます。象山みたいな弟子がいるとトラブルを収集し続けなければなりません。このころの象山は、儒学の大切なところを頭ではわかっていても、体得はしていなかったのじゃないでしょうか。象山は、やがて蘭学を学び、大砲の鋳造に成功し、吉田松陰、勝海舟、坂本竜馬など多くの人物に影響を与えます。しかし、激しい開国思想を持ち、京都で暗殺されます。合理主義が過ぎたのかもしれません。敵は多く作ってしまいましたし、方谷のように、相手の立場を考えてじっくり行動し最終的に目標を達成するなどということはできなかったのでしょう。
3人の感受性
この3人の偉人に共通するのは、人民への愛のように思います。儒教でいえば仁です。鷹山は、人民の生活が楽になるように考えました。金次郎は、飢饉の時に生き永らえさせる方法を考えて実行したり、穀倉を開けるように奔走したのです。方谷も経済の改善を目指したのです。彼らは、ともに格差の是正も試みているように思います。既得権益を何とか人民の方に持ってい行こうとしたとも思います。だから、支配階級の不評を買うことはあったかもしれません。
何でそのように考えて行動したかですが、人民の苦悩を自分の事のように感じられる感受性が共通しているのではないかとも思います。どうでしょうか。
孟子の言葉
孟子は、告子章句下で次のように語っています。(孟子:小林勝人訳岩波文庫)
天が重大な任務を人に与えようとするときには、必ずまずその人の精神を苦しめ、その筋骨を疲れさせ、その肉体を飢え苦しませ、その行動を失敗ばかりさせて、そのしようとする意図と食い違うようにさせるものだ。これは、天がその人の心を発奮させ、性格を辛抱強くさせ、こうして今までできなかったこともできるようにするためである。