愛語 道元の教え
「愛」というのは西洋的な言葉だと思っていました。論語の中には、愛という言葉は出てきません。しいて言えば、「恕」(じょ)が近いのでしょうけれども。
仏教の中では、むしろ悪い方に挙げられています。
愛 真理のことば
中村元訳岩波文庫「真理のことば」第16章は、「愛するもの」であり、
「愛する人と会うな。愛しない人とも会うな。愛する人に会わないのは苦しい。また愛しない人に会うのも苦しい」
「それ故に愛する人をつくるな。愛する人を失うのはわざわいである。愛する人も憎む人もいない人々には、わずらいの絆が存在しない」
「愛するものから憂いが生じ、愛するものから恐れが生ずる。愛するものを離れたならば、憂いは存在しない。どうして恐れることがあろうか?」
「愛情から憂いが生じ、愛情から恐れが生ずる。愛情を離れたならば憂いが存在しない。どうして恐れることがあろうか?」
愛 感興のことば
「感興のことば」第5章は、やはり「愛するもの」である。
「愛するものから憂いが生じ、愛するものから恐れが生ずる。愛するものを離れたならば、憂いは存在しない。どうして恐れることがあろうか?」
「愛するものから憂いが生じ、愛するものから恐れが生ずる。愛するものは変滅してしまうから、ついには狂乱に帰す」
「世間の憂いと悲しみ、また苦しみはいろいろである。愛するものによって、ここにこの一切が存在しているのである。愛するものが存在しないならば、このようなことは決してあり得ないであろう」
「それ故に、愛するものがいかなるかたちでも決して存在しない人々は、憂いを離れていて、楽しい。それ故に、憂いのない境地を求めるならば、命あるものどもの世に、愛するものをつくるな」
「愛するものと会うな。愛していないものとも会うな。愛するものを見ないのは苦しい。愛しないものを見るのも苦しい」
「愛する人々と離れるが故に、また愛しない人々に会うが故に、はげしく憂いが起こる。それによって人々は老いやつれてゆく」
小括
以上のように、原始仏教の経典では、「愛」は、悪の代表みたいなもので、さんざんです。
いいところがありません。
愛語 道元
道元の正法眼蔵中の「愛語」です。仏教の中で、「愛」が肯定的に使われているのは珍しいです。良寛は、最晩年に、この道元の愛語を忠実に書き写しており、それが新潟県島崎の木村家に残っています。新井満「良寛さんの愛語」、松本市壽「良寛の生涯その心」などに非常に味わい深い現物の写真が掲載されています。
以下は、増谷文雄「正法眼蔵」の原文を緑で提示し、黄色のところは現代語訳です。新井の注をいれました。増谷は音読することをすすめています。ぜひ。
愛語といふは、衆生をみるにまづ慈愛の心をおこし、顧愛(こあい)の言語(げんご)をほどこすなり。おほよそ暴悪の言語なきなり。世俗には安否をとふ礼儀あり、仏道には珍重(ちんちょう)のことばあり、不審の孝行(こうぎょう)あり。慈念衆生(じねんしゅじょう)、猶如赤子(ゆうにょしゃくし)のおもひをたくはへて言語するは愛語なり。
顧愛(こあい):気にして大切にする 暴悪:乱暴 世俗:世の中 安否:元気かどうか 珍重(ちんちょう):お気をつけて(別れの言葉) 不審:いかがですか 孝行(こうぎょう):老いた人へのいたわりの行い 慈念:いつくしむ気持ち 猶如(ゆうにょ):ちょうど○○のように
徳あるはほむべし、徳なきはあはれむべし。愛語をこのむよりは、やうやく愛語を増長するなり。しかあれば、ひごろしられずみえざる愛語も現前するなり。現在の身命の存せらんあひだ、このんで愛語すべし、世世生生(せぜしょうじょう)にも不退転ならん。
徳ある:善いこと よりは:ことから やうやく:次々に 増長する:ますます大きくする しかあれば:そうすれば 現前する:目の前に現れる 身命:からだと命 世々生々:時代が移り変わっても 不退転:一歩も引かない
怨敵(おんてき)を降伏(ごうぶく又はごうぷく)し、君子を和睦ならしむること、愛語を根本とするなり。むかひて愛語をきくは、おもてをよろこばしめ、こころをたのしくす。むかはずして愛語をきくは、肝に銘じ、魂に銘ず。
怨敵:恨みのある相手 降伏:穏やかにしずませる 君子:身分の高い人、権力者 和睦:争いを止め仲良くする 肝に銘ず:こころに刻む
しるべし、愛語は愛心よりおこる、愛心は慈心を種子(しゅうじ)とせり。愛語よく廻天のちからあることを学すべきなり、ただ能(のう又ははさ)を賞するのみにあらず。
廻天:世の中を変える 能(ハサ):技
愛語というのは、人々に対して慈しみ愛する心をおこし、愛情に満ちたことばを語ることである。荒々しいことばはつつしむことである。たとえば、世の習慣では安否を問うという礼儀があり、仏道にも「お大事に」という自愛をすすめることばがあり、また「ご機嫌いかがですか」と問ういたわりの礼儀がある。人々を慈しみ念じるような、赤ん坊に対するような、そのような思いを抱いてことばを語る、それが愛語である。徳行のある人は賞めるのがよい。そうでない人に対しては憎むのでなく気の毒に思うのが正しい。愛語を好んで用いていれば、いつの間にか愛語自身が成長してくるものだ。そうすれば、つね日頃は思いもかけぬような良い愛語もふっと現れてくるようになる。だから、いまこの生命のつづくかぎりは、好んで愛語を口にするように努めるがよい。また、時を経てもその方針が変わらないようにと念ずるがよい。 恨みに燃える敵を和ませるにも、権力者たちを仲よくさせるにも、いつも愛語が基本になる。人が直接愛語をきけば、自然に表情にもよろこびがあふれ、気持ちもよくなるのが普通だ。また、対面せずに間接的に自分に対する愛語を聞いたならば、それは、また、心に深く感じ入るだろう。 以下のことを理解すべきだ。愛語は愛する心から生まれてくるものであり、愛する心は慈しみの心を種子として育つものだ。まことに、愛語は世界を変えるほど力があることを学ぶべきだ。ただ才知を称賛するだけではいけないのである。
では、愛語の副作用は何かと考えてしまうのが、精神科医の悪いところだ。道元や良寛の言葉のまま信じることが大切です。良寛は道元をそのまま信奉しました。ただ、書き写しただけなのです。死ぬ前に。自分の考えを入れなかったのです。
親鸞は法然を信奉しました。法然に騙されて地獄に落ちてもかまわないと言っています。自分の考えを入れなかったのです。