薪と灰(道元)

心に残る言葉

 心に残る言葉があります。一見意味が分からない言葉です。真実の深淵を覗くようです。通り過ぎようとしてもどこか引っ掛かります。

 そのような心に残る言葉をたくさん提示してくれる筆頭が道元(1200-1253)です。まず、例を出しましょう。

 道元の主著正法眼蔵の中の「現状公案」のなかから、もっとも印象的な文章を挙げてみます。

 たき木、はひとなる、さらにかへりてたき木となるべきにあらず。しかあるを、灰はのち、薪はさきと見取すべからず。しるべし、薪は薪の法位に住して、さきありのちあり。前後ありといえども、前後際断せり。灰は灰の法位にありて、のちありさきあり。

 普通に訳すと下のようになります。

 薪(たきぎ)は灰となる。だが、灰は戻って薪とはなれない。だからといって、灰はのち、薪はさきと見るべきではない。薪は薪として先があり後がある。前後はあるが、その前後は断ち切れている。灰もまた灰としてあり、後があり先がある。

 その続き

 それと同じく、人は死んだあと、もう一度生きることはできない。だから生が死になるといわないのが仏法である。これゆえに不生という。死が生にならないのも仏法の定まれる説き方である。この故に不滅という。

 生は一時のありようであり、死もまた一時のありようである。たとえば、冬と春とのごとくである。冬が春になるとも思わず、春が夏となるともいわないのである。

薪と灰のさまざまな解釈

 いろいろな方が「薪が灰になる」を解釈しています。じっくりとご覧ください。

水野弥穂子校注 岩波書店 1990たき木、はひとなる、さらにかへりてたき木となるべきにあらず。しかあるを、灰はのち、薪はさきと見取すべからず。しるべし、薪は薪の法位に住して、さきありのちあり。前後ありといえども、前後際断せり。灰は灰の法位にありて、のちありさきあり。
酒井得元 大法輪閣 平成17年ふつう常識では、薪を燃やすと灰になる。でも仏法では、薪が前、灰が後と見てはいけないとおっしゃるのです。そうでしょ。薪を積んどいたって灰になりません。薪はどこまでいっても薪。灰はもと薪だと言っても薪にはならん。灰は灰です。薪はどこまでも薪のあり方を持っている。前も薪である。後も薪である。昨日も明日も薪である。前後はあります。昨日もそうであるならば今日もそうである。ところが、「前後際断せり」。前後がない。薪の前に何かあって薪になったとか、薪がなくなって何かになるということはない。昔何もなかったところに薪が現れ、ある時がたつと薪が他の物に変わった、そういうことではなく、薪はいつまでたっても薪、灰はいつまでたっても灰です。これが「前後際断せり」。
増谷文雄 講談社学術文庫 2004薪は灰となる。だが、灰はもう一度もとにもどって薪とはなれぬ。それなのに、灰はのち、薪はさきと見るべきではなかろう。知るがよい、薪は薪として先があり後がある。前後はあるけれども、その前後は断ち切れている。灰もまた灰としてあり、後があり先がある。だが、かの薪は灰となったのち、もう一度薪とはならない。
中村宗一 禅文化学院編 誠信書房 1968薪は燃えて灰となり、それが再び薪に戻ることはない。しかし、それをいちがいに、薪は始めにあるものであり、灰はそれに続くものであると考えてはならない。薪は薪になりきっていて、始めから終わりまで薪である。見かけの上では前後があるが、それは、つながりのない前後であって、薪はどこまでも薪である。灰もまた灰になりきっていて、始めから終わりまで灰である。
ひろさちや NHK100分で名著ブックス 2018わたしたちは、普通、樹木が薪になり、それがのちに灰となると見ますが、そうではないと道元は言います。目の前に灰があれば、それは灰でしかないのです。昔は薪だったと言っても、灰が薪になることはありません。「灰は灰のあり方においてのちあり先がある」のです。そして、その灰をしっかりと見ることができれば、それが悟りなのです。・・・わたしたちは、健康な人が病気になり、そのあと病気が治ったとみます。だから、病気になれば早く治ってほしいと願います。それが煩悩であり、迷いです。ですが、道元の言うように、病気になれば目の前に病気があるだけです。病気が現成しているのです。わたしたちはその現成した病気をしっかりと生きればよい。そう考えられるようになるのが悟りなのです。現実をあるがままにうけとればよい。そのためには、心身脱落することです。自我意識を捨てることです。その心身脱落した境地から現実世界を眺めるとどうなるか。それを道元は「現成公案」で示したのです。
角田泰隆 NHK宗教の時間  2021私たちは薪が燃えて灰になるのを見ると、そこに大きな変化を見ます。しかし道元は、薪は薪の状態で刻一刻と変化している、灰は灰で刻一刻と変化しているといいます。薪から灰になる、そこだけに変化があるのではなく、そこだけに前後があるのではなく、常に変化しているというわけです。
薪と灰の関係

どうみるか

 水野のは、原文です。注がありますが、この部分の有効な注はありません。「はひ」から「灰」へと何故か変わっています。

 酒井のは、講義中のものです。だから、口語体になっています。「薪はどこまでいっても薪」とおっしゃりますが、火をつけて燃やせば灰になります。薪には前がないと言っても木がありますし、後ろには灰があります。だから、どうも理解困難です。

 増谷のですが、「薪は灰となる・・・」だから、灰はのち、薪はさきと見るべきだろうというのが、普通の解釈だと思います。何か文章がつながらなくなっているように思います。

 禅文化学院、その時の院長の中村宗一です。文章の前後のつながりはしっかりしています。しかし、つながりのない前後というのがわかりません。薪は灰になるではありませんか。

 角田のはどうでしょう。角田は酒井の弟子というか生徒です。わかるような感じもしますが、薪は薪の状態で刻一刻と変化しているといいますが、薪をじっとみていても変化が見て取れるわけではないでしょう。

 というわけで、どれをみてもわかりませんね。わかれば、悟っているということなのでしょうからわからないのが当たり前です。

 また、解説を聞いてわかるようなら修行もいらないでしょう。

皆さんはどう解釈しますか?どう看破しますか?

煩悩

 薪が灰になったのを見て、「ああ灰になってしまった、燃え尽きてしまった、何とか薪にもどらないか」、「もどってほしい、もどしたい」というのが煩悩かもしれません。

 ずいぶんと年をとってしまった。若いころにもどりたいという欲望。欲があるところに煩悩があります。

 早く温かい春にならないか、と悩む。少しでも利益を得たいということばかりに支配されている。

 灰、冬、貧乏に苦しみがあるのではなく、それを無理やり変えたいと思ったり、どうしてもそうならないのを人は苦しんでいます。

 灰は灰の中に生き、冬は冬の中に生きる、その中で存分に生きるということが大切なことなのかもしれません。

 死んでしまったら終わりだ。もう、生きている自分にはもどれない。しかし、死のことを必要以上に考えてしまって、生活が支配されてしまうとしたら、それは妄想(仏教でいうもうぞう)です。生きているのでなく、死んでいるのと同じなのかもしれません。現実に生きたいものです。

無常

 道元は、正法眼随聞記の中でこう語っています。

「われわれの生命は刻々に流れゆいて少しもとどまらず、物事は日々うつりかわって、一定の状態なく、変化することのすみやかなことは、だれでも目の前に見ている道理である。・・・一刻一刻に、明日のあることをあてにしてはならない。

 その日、その時だけ生きているものと考えて、このあとどうなるかはきまったものではない、先のことはわからないから、ただ、きょうだけでも、命のある間、仏道にしたがおうと思うべきである。その仏道にしたがうということは、仏法を興し、生あるものに利益を与えるため、身を捨ててさまざまなことを行っていくのである」

 なお随聞記は、道元の弟子の懐弉(えじょう)1198-1280 が道元の語ったことを記録したものです。道元が書いた正法眼蔵より読みやすいです。歎異抄は、親鸞が語ったことを弟子の唯円が記録したものです。親鸞教行信証より読みやすいです。二宮翁夜話は、二宮尊徳の弟子である福住正兄(ふくずみまさえ)の記録であり、報徳記をやはり弟子の富田高慶が書いています。尊徳の書いた哲学書より読みやすいです。