不完全主義で生きる

 完全主義という主義がある。完全主義はある種の優秀さと関連がある。また、日本人の気質に親和性がある気がする。人間は時に完全主義が必要になる。論文の執筆とか、公式の通知文、高度な建築設計、宇宙船の建造、精巧な時計の部品の製造、法律文の作成などなど。気を抜くことなどできない。

 しかし、完全主義には大きな弊害もある。強迫症状(確認癖とか強迫洗浄とか)のある患者さんをみてみてもわかる。なかなか進まない。いつまでたっても進まない。完全を求めようとするほど訳が分からなくなり生き詰まる。人間は完全にはできないからだ。

 すべてのことを完全にやろうとするのは無理だ。必要なところだけ完全主義で行き、それ以外は違う主義で行くのが大方正しいと思う。それが不完全主義だ。私は普通の生活面で、あるいは日常の仕事面の多くで不完全主義を推奨します。

 いつも完全主義というのは不利だろう。生きるというのは、目的に従って進むことだ。どの課題も100点で突破するわけにはいかない。

 ここに重要な法則がある。90点を取るのに90分の時間を費やしたとしよう。100点を取るのに必要な時間は何分か? 100分だといいが、そうではない。200分ということが多い。しかし、たいていの人間は、200分かけられないだろう。掃除も洗濯もしなくてはならないだろうし、ほかにもやらなければならないことがある。

 だから、100点を目指すのでなく、90点主義で行くと、時間と労力は10%節約できるのでなく、100%節約できる。そう思うとやる気も出やすい。もちろん、必要なところ、ここぞという時には100点を取りに行くのだ。

 家事でもなんでもそうだろう。時間とエネルギーの使用をほどほどにしなければ無理だ。完璧な化粧も無理だ。あきらめてほしい。ちょっと隙(すき)があるのがいいのだ。

 巻き込み型強迫という病態がある。周囲の人にも同じように要求するのだ。同じように完全主義は自分もきついし、それに付き合う人もたいへんだ。何か欠けている方がよいのだ。世界を平和にするなら、不完全主義だ。寛容だ。

 ある物事を行うときも、完全な準備というのはありえない。もし、こうなったら、どうする? こうする。というのを100%準備しておくことはできない。何もできなくなってしまうだろう。同じように、何かを始めるときにすべての人間の同意を得ることもできない。そうしたら、何もできなくなる。

 100%成功する仕事をやっていてもつまらないだろう。時と場合と人によるのかもしれないけれど、無謀は困るが、挑戦していくのが大切だ。

 さて、成功率が70%のことがあるとしよう。1回失敗したからと挑戦を辞めたら、70%勝てる勝負を捨てたことになる。完全主義だと、1%でも負ければやめるということになってしまう。すると、大切な機会を失ってしまう。離婚の確率が20%くらいだということを理由に結婚を断念していたら、日本の将来はないだろう。

 危険を過大視する危険はここにある。20%の離婚を避けるために、本来生涯の結婚率を80%ととして、それを30%に下げてしまうのが、危険な発想の結果だ。ところが、ほとんど気が付かない。間違った認識のもとに間違った行動がなされている。そして、望ましくない結果が残される。

 また、ギャンブルだ。ギャンブルは、30%しか勝てないのに、70%は勝てるだろうと思い込んでしまう。あるいは思い込もうとする。この思い上がり、希望的観測、過大評価、楽観主義がギャンブラーの問題だ。

 野球選手は、3割、30%ヒットを打てればかなりいいほうだ。30%しか打てないから打者はやらないということはないだろう。大切な機会を逸する。普通、ホームランバッターは三振も多い。三振を避けようと合わせていくだけになったら、ホームランバッターにはなれない。

 ともかく、このような認知のゆがみがある。失敗を過大評価するという認知のゆがみ。だからといって、認知のゆがみを頭でもって認識したとしても改善に至るかどうかはわからない。ただ、そういう問題が私たちの日常の中に入り込んでいるのは事実だ。そのために、いろいろな問題が現におきている。(2022年9月)

経験から言わせてもらうとこうだ。成功はなんで成功したかを教えてくれない。しかし、失敗はなぜ失敗したかを教えてくれる。学びが多い。進歩があるのは失敗だ。