非生産的に生きる
世の中の人たちは、できるだけ生産的に生きよという。確かに生産性の高い人によって日本の経済は成り立ち、私たちの生活が保たれてきたのかもしれない。
ニートやひきこもりが経済性を低めているのは確かと言えそうだ。彼らはGNPも少し下げている。産業革命も高度経済成長も、要は生産性拡大の問題だ。いかに生産性を高めるかは、どのような企業でも死活問題だ。
だから、現代の社会においては、生産性の高さが人間の価値のように思われてしまう。生産性が最悪なひきこもりには立場がない。だが、本当に人間にとって生産性は、それほど大切なのだろうか? 人間の価値の指標と言えるのか?
偉人は、人間のお手本だ。では、すべての偉人はすべて生産的か? 反証がある。良寛だ。良寛はむしろ進んで非生産的であったようにも思える。越後の国の大きな商家を継ぐのをあきらめた。良寛の父も良寛も商人には向いていなかった。同じく非生産的だった。挫折して惨めなことになった。父は自死したとも言われている。
良寛のその後の長年の仏教修行はたいへんなものだったのかもしれないが、そこで、生産的な生活とはお別れだ。食すものは、人からいただいたもの。住まいは生涯仮住まい。
新潟に帰ってからの生活は、子供たちと手まりで遊び、時に酒を飲み、托鉢して回り、人に請われれば得意の書も書いた。所有物はわずかしかなかった。本当に非生産的な生活だ。財産もない。でも、軽々と生きられた。非生産性の高い創造者だ。
ひきこもりも大体似ているが、大きな違いがある。ひきこもりは、非生産的であることを心の底で後ろめたく思っている場合が多い。そういう心を否定しようとするが、隠しきれない。だから、少し何か言われると、ひどく傷ついたり、怒り出したり、精神を病んだりする。
良寛は、書や文章を書いたり遊んだりすること以外は非生産的であったが、それに必要以上に苦しんだり、自虐的になることはなかっただろう。健全にかつ非生産的に生きることに挑戦していたのかもしれない。良寛は物をいただくことによって、物をあげる人を優位にする。結果として、人に施す喜びを与えることができる。見えない価値を創造きたのかもしれない。
ひきこもりは、そう簡単に抜け出すことができない病態だ。10年20年回復しないこともある。ところが、人間には非生産的であることは悪だという固定観念がある。後ろめたさを少しでも克服し、非生産的で生きることを受け入れられるような社会が良いと思う。どうどうと自分の権利を主張したり、助けてもらったりしたほうが良い。
助ける方が偉いと世の中の人は思っているが、そうではない。助けてもらってかつ卑屈にならずに受け入れる人こそ偉いのだ。人に助ける喜びを与えているのだ。道徳的にふるまうことを教えているのだ。
助けてやっているのではない。助けたい人に対して助けられて感謝する側の方がえらいのだ。助ける側にはどうしても傲慢さが付きまとう。自分は人を助けたい、人からは助けられたくないというのは、どこか傲慢なのだ。他人のほどこしをありがたくいただいた方がいい。いただくことによって、自らを低い立場に置くことができる。
だから、進むべき道の一つはこうだ。弱い者の立場で生きる。非生産的に生きる。かつ、卑屈にならない。助けるという行為によってプライドを保っている人たちに対して、助けられることを受け入れることによって、助ける人を助けるのだ。
傲慢さが付きまとう援助者と後ろめたさを克服した被援助者では、後者の方が純粋だ。後ろめたさがあるひきこもりは、まだ何かが足りないのだが、誰のせいというわけでもない。
哲学者の岩田靖夫は、「よく生きる」(ちくま新書)の中で、一人の障害者を紹介しています。
アマンドは手足が不自由で口もきけない重度の障害児である。母親がノイローゼのようになってしまって育てられず、孤児院に預けられた。自分はすべての人に見捨てられたと感じ、食事がとれなくなった。もうこのままでは死んでしまうというので、カナダ人のジャン・バニエという人の作ったラルシュ(箱舟)という施設に引き取られた。
そこで、アマンドは紆余曲折を経て、自分を大事にしてくれる人がいるということを体得したそうです。それから、食べられるようになり、回復に向かいました。
アマンドは、富も名誉も地位もなく、人から世話をされるということだけで生きている。この子にとっては、自分を大切にしてくれる人かどうかが問題であり、それがわかると「大好きだよ」ということを体を使って伝えたそうです。この子は何が大切かを教えてくれるという。アマンドは、癒しをもたらす不思議な力を持っていて、わざわざアマンドに会いに来る神父さんもいたという。
助ける方が偉いと思っている。そうではない。助ける方と助けられる方は人間として対等だ。援助する側と援助を受ける側は対等だ。心臓手術をする術者と心臓手術を受ける患者は人間としては対等だ。
生産性の高い人は大いに結構だ。組織や世界のために存分なく力を発揮してほしい。しかし、生産性の低い人と人間としてはかわらない。生産性の低い人を大切にしなければならない。生産性の低い人は生産性の高い人の傲慢さに気が付いても、そういうことはよくあることなのだと思って憎んではいけないだろう。そういう優しさを持てる可能性がある。(2022年9月)