気づきの力 Power of the Awarenss その1

はじめに

 「気づきが大切」などと聞くことがある。心理学の領域で、よく使用される言葉である。あまり意味が分からないまま、心の片隅にあった。何か大切なこと、ひっかかることが、潜在意識の中に留め置かれることがある。それが何かの拍子に意識に浮かんできて、一粒の結晶を生む。「留め置く」のは自分ではなく、自分を超えた何かが関与するように思う。

 このような「気づき」を少しずつ考察していきたいと思う。

 日々の生活の中で、個人の問題だとか、仕事、組織の問題などで壁にぶち当たる。問題を解決して先に進みたいがなかなか進めない。そこを突破したい。

 当たり前にまじめに考えているとどうしても壁を越えられない。あるいは、越えられるとしても、常識的な方法では、時間もお金もひどくかかり、良いとはいいえない。短時間で、省エネで、金もかけずに解決しない限り実現できない。何らかの方法があるのか。

 それを突破するアイデアに気が付くことが大切だ。

 このようなことはいくらでもある。発見、発明。東京ドームの柱のない大天井をどうやって作るか、燃費のいい車、さまざまな革新的技術など、各分野で、新しい発見、発明、気づきにより、人間は恩恵を受けてきた。

 人が普通考えない方法であったり、そのために相当の経費を削減できる方法に気が付いたときは、非常に大きな価値を生み出す。価値があるものほど独創的なので、人からの評価ははじめは受けにくいことも多い。

 非常に長い間、不便なことであってもそのままやり続けていることがある。何か改善する方法がないかと考えることすら気が付かない。はたから見るとおかしなくらい陳腐なことをやり続けていることがある。そして、そのために多大な損失を起こしている。

 つまり、まず、何が問題なのかと気づく力が大切だ。問題に気が付かないと不便なまま、それに多大な不自由があるのに、気が付かないで損失を招いている。

 ニュートンは、りんごが木から落ちるのに、月が落ちないのはなぜか? 気が付いた。ふつう、りんごが落ちることは当たり前のことだと思っている。月が落ちる可能性についても普通の人は考えない。

 物事の矛盾点や常識的に考えるとおかしなこと、そこに気づくことが大切だ。ところが逆に、そんなことは当たり前だ。疑問に思うのはおかしいとか、前からそうだったとか、考えるのは無駄だ、もっと大切なことをしようなど、いわば気づきの敵がある。それが大人だと思われている。ばかばかしいと笑う。

 こうして、才能のある人間が、平凡な人間によって葬られる。そのことをわかりもしない。だから、私は気づきを称揚したい。尊重したい。気づきというのは、革新的なことだ。だから、偉人という人たちには、多く見られるのが普通だ。才能のある人間を支援しなければ日本はだめになるだろう。

 少なくともリーダーという立場にある人は、気づきによって局面を打開しなければならない。

二宮金次郎の気づき

 二宮金次郎の生涯は、気づきの連続である。実現化されなかったことも多いだろうから、一層、気づいたことは多いのだと思う。

 金次郎は、神奈川県小田原の近くの栢山(かやま)というところで農家の長男として生まれた。1787年(天明七年)に生まれた。父親の利右衛門は、栢山の善人と言われたが、病気がちで、財産の多くを失い早逝した。母親と金次郎、弟2人は貧困の中にあったが、更に洪水で田畑を失い、母も病死し、兄弟は別々に親戚にあずけられた。

 金次郎は、伯父の萬兵衛に引き取られた。金次郎の労働は過酷であったが、夜に燈油で読書をした。それに対して萬兵衛は、百姓には学問はいらない。時間と体力の無駄だというのである。しかし、金次郎は勉強が好きであったし、立派な百姓になるにこそ、学問が必要だと気が付いていた。

 萬兵衛に反発はしなかったが、菜種油を自ら作ればよいと気が付き、萬兵衛が寝た後に勉強すればいいのだと気が付いた。また、山で取った薪を小田原の町で売るまでの長い道中に、読書をしながら歩くけば無駄にならないと気が付いた。「大学」を声に出して音読しながら歩く金次郎は、キ印の金次郎と言われた。

 つまり、その付近の誰もが、学問は不要だと考えていた。お金にならない無駄なことだと考えていたかもしれない。そのような中、金次郎だけが、学問は重要だと気が付いていた。

 金次郎の気づきを分析してみると、まず、目的があることがわかる。「立派な百姓になる」、「勉強をする」あるいは「勉強のできる環境を作る」、「燈油を得る」、「無駄な時間を作らない」などの目的がある。

 次に、その目的の実現のためには、どうすればよいかを考える。そして、その方法を思いつく。そして、それを実行する。問題があれば、修正するか、別の方法を採用する。

 そして、結果が芳しければ、金次郎は喜ぶ。自信になる。ますます励もうという気になる。苦労は相殺される。成功率も高い。焦点の合わせ方もうまい。達成ができないことを目指してもいいことはない。金次郎も無理なことは手を引いている。

 では、普通の人とどう違うのだろうか? 人は、ふつう、金次郎のような強い目的意識や願望を持たない。持ったとしてもそれを実現させようとする考えは常識的なものに留まる。現在の延長のような形になる。あるいはすぐにあきらめてしまう。むしろ、そんなに努力することがおかしいかのように考える。「キ印の金さん」と呼んだようにである。

 なぜ普通の人はこうなるのだろうか? 金次郎の方法は創造的なものだ。生活そのものが創造的である。壁を新しい方法で乗り越える、局面を創造的な手法で打開する。

 金次郎の最終目的は何かだが、「立派な人間になる」ということではないか。金次郎が学んだ儒教の教え、父親の生き方などから持ったものかもしれないし、生まれつきの素質もあったのだろう。人間にとって何が大切かというのを直観的に理解する力とか、それを求めていくという欲動があった。

 もう一つの金次郎の目的は、人の苦労を減らし、できるだけ皆の命を救い、貧困から脱出させるということだ。要するに、他者に対する愛だ。自分の幸せだけを追求していたのでは救われない自分の気持ち、自分の感受性なのだ。

 普通の人は、そもそも、立派になろうと強く思ってはいない。自分の理解できる範囲の中で生き、それでも「これでいいのだ」と自分をたいていは肯定している。人に、それでは足りないと言われると腹が立つ。そんなものだ。

 話がだいぶそれてしまったが、金次郎の気づきを促したものは、立派な人間になるという強い願望、他者への愛、解決しようと考えることなどだ。

彼の人生の特徴は、気づきともう一つ。実行だ。完結させるということだ。成果を出すということである。