偉人から見た善悪(医療関係者向け)

 精神科の患者さんは、リストカット、過量服薬、他害行為など、常識的な人から見ると「悪い」ことをしてしまいます。しかも、繰り返し。好ましくないことばかりをするので嫌われものになってしまいます。ただ、精神科の医療従事者はできるだけそういう患者さんの味方になり、唯一の理解者になる必要があります。そのためには、世間の常識というものを超えなければならないということになります。たいへんなことですね。

 そこで、今日は良寛さんの考えをお話ししたいと思います。良寛さんは1785年に生まれた江戸時代の僧侶で、曹洞宗という禅宗の寺で修業しました。新潟県出身です。精神科に関係することを述べますと、良寛さんの父親は庄屋のような街の代表のようなことをしていましたが、権力争いで敗れて、最終的には川に身を投げて自殺しています。長男の良寛さんが継ぐはずでしたが、性格的に合わなかったと思われます。良寛さんは、家も仕事も弟に託して剃髪します。

 良寛さんは、岡山県の寺で長く修業します。誰よりも熱心に座禅を組み、修業したそうです。そして、悟りを得て透徹した眼力を有したわけですが、世間的な成功の道を歩まず、私有財産を持たず、欲をもたずに、新潟県の故郷にもどって、寺にある小さな小屋を借りて生活します。子供たちと毬つきをして遊び、托鉢して食物を得る生活でした。良寛さんは僧侶として世間の人々を感化して煩悩を乗り越えて健全な生活をしてもらいたかったらしいです。

 そんな良寛さんが善悪について以下のように書いています。

 人々は、それぞれ一方的な見方に執着して、どこでも、よいとかよくないとか議論しあっている。自分の見方に似ているのは、悪くても正しいとし、自分の見方と違うものは、善くても正しくないとする。ただ、自分のよいとする点を正しいとし、それを、他の人がよくないとしているのにどうして気が付かないのか。よいとかよくないとかという判断は、初めから自分自身に置いているが、真理の道はもともとそういうものではない。例えるならば、自分の持つ短い竿で深い海の底を測るようなもので、ただその場逃れの愚かな行いだと思われる。

 真理の大海は、限りなく深く大きいものですが、それを自分の短い棒で探ろうとしている。そして、何もわからないのに、わかったようなことをいう、良寛さんには、そうみえたのです。

 さて、良寛さんの2歳年下の偉人がいます。1787年に小田原で生まれた二宮金次郎さんは、中年以降、良寛さんの住んだ新潟県のお隣の栃木県で生活したのですが、善悪についてこのように語っています。

 儒教でも仏教でも善をなせというが、その善ということがどういうものかということが確かでないから、人々は善をなすつもりで、そのするところがみな違っている。善悪はもと一円である。盗人仲間では、よく盗むのを善とするが、世間では盗みは悪である。天に善悪はなく、善悪は人道で立てたものである。例えば草木などにどんな善悪があるだろうか。それを米を善とし、はぐさ(田に生える雑草)を悪とする。ただ、食えるかどうかをもって善悪を分けるのは、人の都合から出た偏った見方ではないか。

と言っています。不思議ですね。同じようなことを隣の県で生活していた2人が同じように重要なことだと考えていました。

 こういう考えが、私たちの日常臨床に使えるのかどうかはわかりませんが、善悪という自分のものさしは非常に脆弱であてにならない、それでもって、人を裁くなどできないのは当然ということなのです。

 人間とか、精神とか、精神疾患とかは、天に属するものですが、DSMとか薬の使い方とかは、人道の水準に属するものです。自ずと限界があるように思えます。