ラッセルの幸福論で幸福になる 6 「罪の意識」

 ある種の行為は、内省しても理由が分からないまま、そういう行為を行ったときに不愉快な気持ちになる。それは、当人が6歳以前に受けた道徳教育によるとラッセルは言う。汚い言葉を使うのは良くないとか、煙草を吸うのは良くない、酒を飲むのは良くないという教えが無意識の中に入り込んでおり、そのために、不快になるという。

 ここで、精神分析との関係を提示しておかなければなりません。バートランド・ラッセル(1872-1970、英国)、ジクムント・フロイト(1856-1939、オーストリア) 

1931年のフロイト 75歳

 このような道徳律は、ラッセルによれば不合理である。嘘ですら、必ずしも悪いと言えない場合があるという。男性の場合、性器と罪とを結びつけて考える習慣が6歳までにしっかりと確立されてしまうと、女性がセックスにより堕落すると思い、妻が性交を嫌悪しない限り、妻を尊敬できなくなる。女性の場合でも同じで、純潔な女性になることをひどく強調されて育てられた場合、夫との性関係において本能的にしりごみをして快楽を得ることを恐れる。

 一方、ガンジーは極めて厳格に育てられたましたが、青年時代の彼は、兄のブレスレッドを削り、金を売って喫煙代に充てたり、ひそかに肉食もしました。若妻とイチャイチャしている間に父が病死してしまいました。しかし、次第に厳格な草食主義になり、私有財産を持たず、暴力を拒否し、抵抗します。受けた教育より、ヒンズー教を信奉することによってそうなりました。そして、やがて、兄への送金を中止します。

同じ1931年のガンジー 円卓会議

 ラッセルは、こうした、不合理な罪の意識を起こさせるようなおろかな教育の害を最小にしたいという。罪の意識が特に明瞭になるのは、疲れや病気や飲酒によって、意識的な意志が弱められた時である。「悪魔も病気になると聖者になりたがる」。弱っているときには小児的な暗示にあらがいたくなるが、これは間違いだという。

 ラッセルは、生涯に4回結婚しています。それで、後悔しているどころか、恋愛を讃えています。別れた妻に申し訳なかったとか、それが本当の愛だったのか?など自分を責めるような考えを一切持たないようにしているかのようです。

 理性が悪くないと告げる行為について、あなたが後悔を感じ始めるようなときには、その都度、後悔の感情の原因を調べて、それが不合理なものであることを、いちいち得心することだ。意識的な信念を生き生きと強力なものにして、子供の頃、母親から受けた印象と十分戦えるような強力な印象を無意識に与えるようにすればいい。不合理をつぶさに点検し、こんなものは尊敬しないし支配もされないぞと決心することだ。

 教育は支配者にとって、好都合です。人を従順にコントロールできます。また、それを順守させるために、「それでも人間か」とか「常識外れだ」とか「人を傷つけても平気なのか」、「それでも愛しているといえるのか」、「人を困らせてはいけない」などという言葉や押しつけや、罪悪感を助長するような言葉の暴力によって、さらに従順にさせようとします。実に恐ろしいことです。支配下に置かれ続けます。

 真に有害な罪は、狡猾な商取引、使用人に対する邪険さ、妻子に対する残酷さ、競争相手に対する意地悪、政争における残忍さなどであるが、これらは、先に述べたことがらと異なり、罪の意識を感じさせない。なぜ道徳がこのようになってしまったかと言うと、その道徳が不合理なタブーの古臭い断片からできていたからだという。僧侶たちと精神的に奴隷化された女性たちによって定式化されたものであるからだという。理性の命じるところをよく考え、深く感じることが、幸福をもたらす。

 罪の意識は、人間の尊厳と関係します。人が人らしく生きるためには、罪悪感から逃れなくてはなりません。罪悪感によって、人は心ない人に支配下に置かれます。

 罪の意識が強くなった時には、それを啓示とか、高いものへの誘いであると考えず、病気であり弱さであると考えなければならないという。

 罪の意識には何か卑屈なところ、何か自尊心に欠けたところがある。罪の意識は、よい人生の源泉になるどころか、まったくその逆である。人を不幸にして劣等感を抱かせる。劣等感があるので、自分より優れていると思われる人に対して、恨みやねたみを持ち、感じの悪い人間となり、ますます孤立するという。

 内省は、自己没頭を増大させるため、望ましいものではない。調和のとれた性格は外へと向かうものだからだ。憎しみやねたみを減らす方法を発見することは疑いなく、理性的な心理のはたらきである。情熱的な愛、親の愛情、友情、慈悲心、科学や芸術に対する献身などの中には、理性が減らしたいと思うのは一つもない。

 私たちの伝統的な道徳は、不当に自己中心的であった。そして、罪の観念は、こうした、愚かにも自己に注意を集中することの一部である。この病気から抜け出るのには、理性が必要である。もしかすると、この病気は、精神的発達において必要な段階なのかもしれない。

 道徳は、支配者の巧妙な仕掛けなのだろうか。

 内部が分裂している人間は、興奮と気晴らしを探し求める。強烈な情熱も愛するが、それにはしっかりした理由があるわけでなく、さしあたり、我を忘れさせてくれるので、思考と言う辛い仕事をしなくても済むからである。彼は苦痛からの救いはすべて陶酔の形でしか可能でないように思われる。これは根の深い病気である。

 病気のないところでは、己の能力をもっとも完全に発揮できるときに最大の幸福が訪れる。もっとも強烈な喜びを味わえるのは、精神が最も活発で物忘れの少ない瞬間である。

 宮本武蔵は言っています。「我事に於て後悔せず」。小林秀雄はこれに対して、こう語っています。「過去のできごとに拘泥して反省ばかりしていると、「今」という時間がないがしろにされてしまいます。「今」という時間が「過去」に置き換えられてしまいます。反省という、いつの間にか刷り込まれてしまった、つまらない悪癖はいいかげんにして、やめるのが賢明です」。「反省させると犯罪者になります」という本がありますが、反省や後悔は自分にとっていいものを生み出さない気がします。反省させたり、後悔させたりする人間につまらない満足を与えるだけかしれません。

宮本武蔵 「我事に於て後悔せず」

 後悔が一番有効なのは、敵に後悔させるということだ。四十七士が吉良上野介に後悔させたとか、アメリカが原爆を落として、日本が開戦したことを後悔させてやるとか、そういうときに有効なものだ。後悔しない相手には勝てないのかもしれません。だから、不敗とは、後悔しないということかもしれません。

 罪悪感の自覚とそれからの離脱をおすすめします。また、不当な支配に気づき、それから逃れ、人間らしく生きることを応援します。(2024年2月)