罪悪感を克服する

 「ラッセルの幸福論で幸福になる(6)」に書かせていただいた「罪の意識」ですが、言いかえれば罪悪感(feeling of guilt)。これが大きな問題を現代において導き出しています。ラッセルは、精神分析の影響もあったのでしょうが、6歳までの教育の中での「こうあるべきだ」とか、「こうであってはいけない」という教えが大きく影響しているといいます。

 日本では、ラッセルの育った英国ほど教育が厳格でないかもしれません。その代わり、日本人は言われなくても、くみ取る、慮る(おもんばかる)、いわゆる忖度(そんたく)をします。親が何も言わなくても親が嫌がることをしてはいけないし、何かを主張すると親を困らせることになるから黙っているなどのことは日本人にはよくあります。欧米なら、親もはっきり言いますのでわかりやすいのですが、日本では、親が明確に言語化しないこともあります。だから、特に感受性の強い子供は、親が困るのではないかと慮って行動し、また、我慢することも多いといえます。

 儒教の教えでも、そういうところがあります。「子貢(しこう)問いて曰く、一言にして以て終身これを行うべき者有りや、と。子曰く、それ恕(じょ)か。己の欲せざる所は、人に施すこと勿(なか)れ、と」(論語 衛霊公)弟子の子貢の質問に孔子が答えたものです。生涯、行うべきものを一文字で表せましょうか? 孔子は、それは恕(思いやり)だ。自分が嫌だと思うことを相手にしないことだ。1万円札になった渋沢栄一は論語を深く研究しましたが、彼は自分が嫌だと思うことを人にしないことは割と簡単だと言い、自分は「人が相手にしたくないと思っていることを自分もしない」でいたいといいます。

 渋沢栄一は、民間に下り、多くの会社を起業して日本の発展に尽くしました。そんな渋沢が言っていることですから間違いはないのでしょう。ちなみに、キリスト教の新約聖書マタイ 7.12に、「だから、何事でも人々からしてほしいと望むことは、人々にもそのようにせよ」という言葉があります。

山あり谷あり

 元にもどりますが、このようなことも関係して、日本人には、少しでも親を困らせてはいけないという考えが固着してしまい、それが親ばかりに限らず、誰に対しても困らせてはいけないということが最優先になってしまいます。その時、自分の欲望とか、怒りなどは捨てるか隠すかしないといけません。これが、無意識の中で進行していきます。これが罪悪感につながります。

 罪悪感が生じやすい土壌がこのように日本人には強くあります。「おもてなし」もどうでしょうか。日本人のいいところでもありますが、いつも、うまくおもてなしするのは難しいことですし、どんな相手にも同じようにするのも困難です。おもてなししなさいと強要されるのも問題でしょうし、うまくおもてなしできないことも多いだけにこれも罪悪感の土壌となります。おもてなしをすることが日本人の特性などと宣伝されても危険なことのように思います。嫌々おもてなしすることほど負担なこともないでしょうし、悪用されることもあるかもしれません。

意識と無意識の間

 こういうわけで、ある行為に対して、自分の配慮が足りなかったと考えてしまうことも日本人は多いと思われます。店員の態度も日本人は普通親切です。しかし、この罪悪感を抱きやすい性質は、大きな問題を引き起こします。利用されたり、餌食になったりします。差別とは別の問題を引き起こします。

 人が攻撃的になる時、この罪悪感を利用して困らせることが多々あります。

 例えば、教師はこうあるべきだという考えが世間一般に強くありますが、人間は完璧にはできません。まじめな人ほど、完璧にできていない部分に罪悪感を持ちます。意識していないことが多いと思いますが。モンスターペアレントもそういうところに入ってきます。

 問題は、そんなとき、「お前はできていないじゃないか」という人がいることです。罪悪感を持たない人ならば、「何言ってんだ」と問題にもしないでしょうが、罪悪感のある人は、そのとおりかもしれないと思って、がっくりくるし、落ち込む。言う方は、正しいことを言っていると思っている。おそろしいことです。罪悪感を持ちやすい人間と、気が付かずに自分のストレスを発散させているだけの人のゲームのようです。

罪の意識を払拭

 こどものいじめ、大人のいじめもそんなものかもしれません。いじめられるのは自分に問題が少しあるのかもしれないと思ってしまう、罪悪感を抱いてしまう。そこに付け込む。

ここで大切なことは、人が罪を実際に犯したのでなく、罪を犯したと思っている、つまり根拠のない罪悪感を持っていることです。

 まともに考えられる人間なら、人は完全に理想的にはできないものだし、ほとんどの人はとても努力しているのだ、それでもできないことがあるのだと思うことができます。正論を言って困らせるより、励ましたいと思います。あるいは、うまくいかないようにみえるが、何かどうしようもない事情があるのだろうと推測し、お前は間違っているなどと主張して困らせることはしないでしょう。それが優しさであって、それによって人は自分らしさを取り戻したり、幾分まともに考えられるまでに回復します。

 統合失調症の患者さんは、たいてい片付けが苦手です。「たいてい」ということは、個人の問題ではなく病気の問題であることがわかります。それをわかることが学問というものでしょう。ところが、それが分からない人は、片付けができないなんて信じられない、さぼっているのが悪いと思い、実際にそう指摘してしまいます。患者さんは少々後ろめたく思っているので(若干の罪悪感)、がっくりときてしまいます。私に言わせれば、そのたびに精神的ショックが脳の炎症を少し起こし、それが蓄積し確実に病状を悪くする方向に作用します。

 罪悪感を持っていると、それを利用しようとする人間が出てきます。そういうことに鼻の利く人が多い。その両者ともこれらのことに気が付いていない。支配する側の人間はうまくいかないときは、自分が悪いのでなく相手が悪いと思うから逆上します。罪悪感を持つ側は、自分がさらに悪いと考えてしまう。というか、意識されないでこういう関係が継続します。人間尊重とは程遠いといえます。

 「弱みに付け込む」の弱みとは、発覚していない実際の罪のこともあるのでしょうが、罪悪感という実態のないものでも利用されます。いじめ、恫喝、因縁をつける、・・・。

 カスタマーハラスメントも、そうです。店員はこうあるべきだというのがあり、そこをつく。

 人が罪悪感を感じているような場合、罪悪感が意識的なものでも無意識的なものでも、それを明らかにしようとしたり、つけ込んだりするのは、非人道的です。やめたいものです。また、同時にAがBの罪悪感を刺激して苦しめようとしている(無意識の場合が多い)のに気が付いた時には何とか伝えたいものです。罪悪感の克服がいらない不幸を減らすことでしょう。(2024年9月)