もう死にたいと思う時の生き延び方 Ⅲ

 カントは、1785年の「道徳形而上学の基礎づけ(道徳形而上学原論)」の中で、自殺について書いています。

 カントはまず人間の義務を、完全義務不完全義務とに分けます。また、義務を別の角度から、自分自身への義務他人への義務とに分けています。ですから、2×2で4通りの場合ができます。

 また、カントは、絶対的で必然的な定言命法はただ一つであり、次のように表現されるといいます。

君は、君の行動原理が同時に普遍的な法則となることを欲することができるような行動原理だけに従って行為せよ」。

 そして、4種の分類のうちの1つの例として自殺の例を挙げています。これは、自分自身への完全義務の例です。自殺してはいけないということは、絶対に守らなければいけないという意味です。カントはそれを証明します。

 ある人が、次々と不運に襲われて、ついに絶望状態に陥り、生きるのが嫌になったとしよう。それでもまだ理性を残していて、自殺することは、自分自身に対する義務に反するかどうかを自問できたとしよう。そこでこの人は、自殺という行為の行動原理(格率)が普遍的な自然法則となりうるかどうかを調べてみる。
 自殺についての彼の行動原理は、次のように表現できる。「これから長く生き延びたとしても、安楽が約束されるどころか、さらなる不幸に脅かされることを考えると、私は自愛の気持ちから、自分の生命を絶つことを行動原理とする」。次に検討する必要があるのは、この自愛の原理が普遍的な自然法則となりうるかどうかということである。

 これを検討してみるとすぐに理解できるのは、この自愛の原理を法則にすると、自然は自己矛盾に陥り、自然として存続できなくなるということである。というのも、自然は人間に感覚(感情)を与えたが、感覚の使命(本分)は生命を促進することにあるが、この行動原理によると、自愛という同じ感覚によって生命を破壊することが法則として定められることになり、自然は自己矛盾に陥るからである。だからこの行動原理は普遍的な自然法則になり得ないのであり、この行動原理はあらゆる義務の最高の原理にまったく反するものとなる。

 よって、自殺をする正当性はない、ということになるらしいが、正直言って分かりにくい。すんなり腑に落ちるということになりません。カントを厳密にわかろうとすると分からない。大雑把に分かろうとすると分かった気になります。、概略は以下のようになるのでしょう。

ただ、カントも言っていますが、理性が残っている場合にかぎり、有効の可能性があるということでしょう。自殺するような場合、うつ病等により、理性の働きはすでに弱められています。哲学よりも治療を優先すべきだと思われます。

友人たちとカント AIイメージ

 また、カントは、

君は、みずからの人格と他のすべての人格のうちに存在する人間性を、いつでも、同時に目的として使用しなければならず、いかなる場合も単に手段として使用してはならない」としています。

 自殺しようとしている人間が、自己自身に対する必然的な義務の概念にしたがって、自分の行為がはたして、「人間性は目的そのものである」という理念と一致するかどうか、自問すると考えてみよう。
 もしもこの人が、現実の困難な状態から逃れるためにみずからの命を絶つとすれば、人格を、生涯にわたってどうにか耐えられるような状態を維持するための単なる一つの手段として使っていることになる。そしてこれが維持できなくなると、人格を捨てようとしていることになる。
 しかし人間は物件ではなく、単なる手段としてのみ使用されうるものではない。人間はそのすべての行為において、みずからをつねに目的そのものとみなさねばならない。だからわたしは自分の人格のうちにある「人間」を勝手に処理することはできず、この人間を傷つけたり、損なったり、殺したりすることはできない。

 ここでわかりにくいのは、人間人格人間性です。この3つの区別。ですが、全体としては、下に図示したような感じでしょう。気持ちとしてはわかりますが、上述しましたように、理性は失われているか、変容してしまっています。ですから、これを提示しても有効な可能性は少ないのですが、理性が働くうちにみておく必要があります。

 カントが自殺を考えるほどの時期があったとすればですが、純粋理性批判が完成するまでの10年間でしょうか。自分を疑ってもしかたないくらいの苦しい時期だったかもしれません。素人の単なる推測にすぎませんが。

文献
道徳形而上学原論 篠田英雄訳 岩波文庫
道徳形而上学の基礎づけ 中山元訳 光文社文庫
カント入門 石川文康 ちくま新書

2026年1月