鷹山、金次郎、方谷 3 学問

学問について

鷹山の場合

 上杉家に迎えられてから鷹山が学んだのは、藩主重定の侍医の藁科松柏(わらしなしょうはく)です。松柏は、藩内随一の秀才で名医であり儒者でした。松柏は鷹山の才能を認め、有能な師が必要と考え、細井平洲を招きました。自分では、この優れた鷹山の師としての能力の限界をわきまえたのでしょう。

 平洲は、愛知県出身の豪農の家に生まれとはいえ、名もない身分に生まれ、中西淡淵(たんえん)に師事し、長崎で中国語も学びました。責任ある地位に抜擢され、その後、江戸で私塾を開いていました。

 儒教の中で折衷派といわれ、実践を大切にしました。幕府指定の朱子学と異なり、陽明学に近いものであったとのことのようです。

 おそらく朱子学が優勢だった時代に、平洲は新しい考えを柔軟にもっていたのかもしれません。のちに鷹山はこの教えを精神的な支柱にしていったらしいです。月1回の講義を6年間受けたそうです。内村によれば、鷹山は、他の身分の高い家の子弟と異なり、その師に対して、ひたすら従順でした。藩主重定とは生活指針も何も異なるものでしたが、鷹山は重定、その娘で精神遅滞の幸姫に対しても、ひたすら尊重しています。

 身分の高い家柄の子弟たちは、分け隔てられて育てられ、その結果、部下に対する義務も、自分に力と富とが与えられている意味も忘れてしまってる時代、そのような中で、鷹山は稀有な感性を持っていたと内村は書いています。

 さらに内村によれば、「民をいたわること、わが体の傷のごとくせよ」という中国聖賢の言葉は、鷹山の心の中に深くしみこみ、生涯に渡って民をみる心がけとしたとのことです。今のその国も民を大切にしてほしいです。

 米沢に行ってからも、領民や家臣の教育のために、平洲に嘆願し、大金を献じて、米沢に招聘しました。1771年44歳の時です。

平洲は、計3回米沢に赴いた。3回目は平洲69歳、鷹山46歳の時です。13年ぶりの対面となり、平洲は52日間滞在しましたがこれが最後となりました。

 1801年平洲は74歳で没し、鷹山は50日間の喪に服しました。普通、殿様ともなれば、師とはいえ、一学者のためにここまではしないのではないでしょうか。思い入れがとても強かったともいえるでしょうし、儒教的な意味で、師が尊ぶのは当然という考えもあったでしょう。いや、鷹山は儒教の上の常識にしたがってしたのではなく、本当に心から敬慕していたのでしょう。孝とか忠とかいう意味で、鷹山は儒教のお教え、というか良識に忠実だったのでしょう。

金次郎の場合

 鷹山が恵まれた学問の機会を得てきたのと対称的に、金次郎の教育事情は最悪でした。16歳で親を亡くし、伯父の元に預けられました。金次郎は伯父に負担を負けないように、農家の仕事に熱心だったのですが、学問をしたいという気持ちが強かったのです。しかし、伯父は金次郎が農民には意味がないと考える学問に反対でした。夜学で油も使うことが許されず、仕事の行きかえりに、「大学」を読むことがせいぜいでした。

 金次郎のすごいところは、自分と考えの違う伯父の教えに忠実に従ったことです。反発したり、悪口を言ったり、恨んだりしなかったのです。これは、鷹山が考えの違う重定に忠実だったのと似ています。欧米型の自己実現とか、発信が大切だ、意見は堂々と主張すべきだ、などという考え方とは異なるように思います。むしろ、自分を潔く捨てるというような感じがします。

 洪水で沼地となったところの水を汲みだして、捨てられた苗を植えて米を育てたところ、2俵の米がとれ、金次郎は感激したのです。内村はこう書いています。「金次郎は、自然は法に従う者に豊かな恵みを与えることを知った」と。金次郎は驚き、感激したのです。稲盛和夫が場末の工場で苦難の末、思うようなセラミックの形成がうまくいったときの感動と似ています。しかも、誰も周囲の人は驚きもせず、冷めているのです!

金次郎は、ほとんど独学だと思います。小田原の服部家に奉公していた時に、少し学べたくらいだと思われます。ただ、独学で四書五経は学んだと思いますし、貝原益軒の大和俗訓なども購入しています。金次郎の場合、実践の中から、大切な法則を見つけていった障害だとも言えます。人に譲る推譲とか、適正な支出を表す分度とか・・・。算数も得意だったのですし、それをいろいろと現場に応用したのです。あるいは、主張の根拠として数学的な裏付けを取り入れたのです。

 金次郎は関数を使ったともいわれますが、多くの農村を復興に導くうちに、彼の得意な法則のようなものを作ろうとしたと思います。彼のやり方は、現実的な資産や収入、支出を明らかにして、分度を定め、そのための方策を定めていくものであり、数学の得意な彼はなるべく救済の方法を一般化、法則化したかったのではないかと思います。

金次郎は自分自身が貧しい育ちであり、農民の苦しさを知っていましたし、倹約の大切さを知り、農民と同じ水準の生活に自分を置こうとしていました。何とかなるだろうと嫌がって直視しなかった現実を直視し、そこから考えていったようにみえます。これは、私の想像です。

方谷の場合

 方谷の学問は、これは本業と言っていい、すさまじいものです。鷹山は藩主として国を治めることが第一の仕事、金次郎は農村の復興、人の心の復興が第一の仕事でしたから、学問は、第一というわけではありませんでした。しかし、方谷は親が熱心だったこともあり、5歳から、有能な師,丸川松陰の元で儒学、朱子学を学ぶことができたのです。しかもその後、江戸に出て、日本中から英才が集まった佐藤一斎塾で、何とまもなく塾頭となったのですが、塾の2傑と言われたのが、方谷と松代藩の佐久間象山だったようです。勝海舟や吉田松陰の師となった佐久間象山ですら、方谷に立ち向かいましたが、かなわなかったようです。そして、佐藤一斎は、2人のやりとりをひそかに楽しんでいたようです。

 このようなわけで、方谷の学問は群を抜いていたといえましょう。しかし、方谷は、朱子学をいくら学んでもどこか満たされないものがあり、やがて、陽明学に変わりました。そのため、丸川松陰とは確執を生むわけですが、やむを得ないのです。確か貝原益軒も最後に、朱子学に対する疑問を抱き、「大疑録」を最後の著作としたのです。