スピノザから学ぶ自由な生き方 7

 話はそれますが、「世界は善に満ちているトマス・アクィナス哲学講義」の著者山本芳久は、同書の中でこう言っています。「哲学の古典を丁寧に読むというのは、けっこう大変な作業で、何十年も読んでいる専門家でもよくわからないところがたくさんあるものなのです。同業の人たちと読書会を開いても 1-2ページのテキストに関して何時間も議論して、結局分からない箇所が多数残ることもあります。というか、むしろその方が多いのです」と正直に告白されています。ですから、素人の私がわからなくても全然おかしくないのです。いろいろなスピノザの解説書を見てみても、わかっているところを中心に論じているというような感じがします。

 スピノザのエチカ 第5部「知性の能力あるいは人間の自由について」の後半に行きましょう。これで最後です。

 明瞭な認識、とくに神の認識そのものに基礎のある第3種の認識(直観的認識)によって、受動的な諸感情が精神の極めて小さな部分しか構成しないようにすることができる。次にこの認識は、不変にして永遠なもの、真に所有できるものへの愛を生む。その愛はますます大きくなり、精神の大部分を占めるようになる。

 認識の段階というのがありましたね。その中でもっとも真実に迫れる認識様式である第3の認識によって、問題のある感情のコントロールが無理なくできる、悪感情に侵されにくくなるということでしょう。

 われわれは、個物をより多く認識するにつれて、神をそれだけ多く認識する。この個物の認識とは、個物の本質の認識、直観知を意味する。精神の最高の努力、最高の徳は、ものを第3種の認識によって認識することである

 個物とは何でしょうか。われわれの周囲にあるものや現象でしょうか。たとえば、私のような職業では、患者さんのこととか、症状などを明確に認識できるかというと、たいへん困難です。なかなか正しく認識できませんし、認識は進化を必要として、これでいいということがないように思います。

 この第3の認識から、存在しうる精神の最高の満足が生じてくる。かくて各人は、この種の認識において有能であればあるほど、それだけ自分自身と神をよく認識することになる。すなわちその人はそれだけ完全となり、幸福となる。この種の認識から存在しうる精神の最高の満足、最高の喜びが生まれてくる。第3種の認識から神への知的愛が生じてくる。なぜなら、この種の認識から、原因としての神の観念をともなう喜び、神への愛が生まれてくる。

 スピノザは、いかにこの認識が重要であるか、繰り返し述べています。

 これらの帰結として、神は自分自身を愛するかぎりにおいて人間を愛し、したがってまた、人間に対する神の愛と神に対する精神の知的愛とは同じものであるということになる。以上のことから、自分たちの救済あるいは至福、あるいは自由が何に基づいているかを理解することができる。それは、神に対する不変の、永遠の愛あるいは人間に対する神の愛の中にある。

 人間は神の作ったものというか、スピノザによれば、神の一部とか、神の変容ということではなかったでしょうか。だから、神は人間を必然的に愛し、神の変容である人間も神を愛するということでしょう。そこに至福があるということなのでしょう。

 われわれの精神の本質は認識することにあり、またその認識の始原と基礎は神であるから、われわれの精神が、その本質と存在に関して、どのようにして神的本性から生じてくるか、そしてたえず神に依存しているものであるかが明らかとなる。

 認識することが大切なんでしょうね。スピノザからみれば、間違った認識のまま行動し、思い込み、混乱した人生を送る人が多いのでしょう。人には認識の更新が必要に思います。

 精神が、第2種と第3種の認識によってものを認識することが多ければ、それだけ悪い感情から影響を受けることが少ない。そして、死をそれだけ恐れなくなる。

 認識が不完全なために、妄想が生じ、暗いままなのです。そのために苦しむのかもしれません。ブッダだって、修正をすすめ、あるいは急に飛躍することによって正しい認識の段階に到達したのですね。

 至福は徳の報酬ではなく、徳そのものである。われわれは快楽を抑えるから至福を楽しむのではなく、むしろ逆に至福を楽しむから快楽を抑えることができるのである。

 こんなに努力したのに得られなかったということでなく、努力=徳なんでしょう。

 これらのことから、賢者がどれだけ多くのことをなしうるか、また快楽によってのみ動かされる無知な人よりどれだけすぐれているかということが明らかになる。なぜなら無知な人は、外的な原因によってさまざまな仕方で動かされ、けっして心の真の満足に達しないばかりか、なおそのうえに自分自身や神そして他のものについてほとんど無知のままに生活しており、しかも影響を受けることをやめるやいなや、存在することもやめてしまう。これに反して、賢者は賢者として見られる限り、ほとんど心を動かされない。むしろ自分自身や神そして他のものをる永遠の必然性によって意識し、けっして存在することをやめず、常に心の真の満足に達しているのである。

 やはり、無知なままじゃ知れています。正しい認識へと向かっていかないと。次の言葉でスピノザはエチカを締めくくります。

 とにかくすぐれたものは、すべて稀有であるとともに困難である。

2021年6月20日