逆説的に生きる その1 親鸞 源左
逆説とは何でしょうか? 辞書では、真理(結論)と反対なことを言っているようで、よく考えると一種の真理を言い表している説。 例、「負けるが勝ち」の類。パラドックス(paradox)とは、正しそうに見える前提と、妥当に見える推論から、受け入れがたい結論が得られる事を指す言葉である。逆説、背理、逆理とも言われる、となっています。
歎異抄に次の言葉があります。
善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや。しかるを世のひとつねにいはく、悪人なを往生す、いかにいはんや善人をやと。(岩波文庫より)
親鸞はこのように言いました。善人でさえ、極楽浄土に往って生まれ変わる。まして、悪人なら当然そうなる(A)。しかし、世間では、悪人ですら往生するのだから、善人なら往生するのは当たり前だ(B)と言われている。
常識ならば、当然(B)が普通です。善人に良いことがあり、悪人は罰を受けるのが当たり前のことで、そういう法則があるので、道徳があり、教育的指導もできると考えるのが普通です。(A)は、まじめであることがばかばかしくなるような法則ではないでしょうか。
なぜこうなるのか、続く文章でその理由を親鸞は説明しています。
阿満利麿(あまとしまろ、ちくま学芸文庫)の訳をみてみましょう。煩悩に縛られた私たちは、どのような修行を実践しても、迷いの世界から離れて自由になることができないのですが、その私たちを憐れんで、阿弥陀仏は誓願をおこされたのです。つまり、阿弥陀仏の根本の願いは、私ども悪人を成仏させることにあるのですから、他力をたのむ悪人こそが、正真正銘、浄土に生まれて必ず仏となる種の持ち主なのです。それゆえに法然上人は「善人でさえ往生するのです。ましてや悪人が往生することはいうまでもありません」とおっしゃったのです。
このように逆説は、通常の常識とは異なり、ぎょっとするものです。歎異抄の中にはほかにも、通常の考えでない、ぎょとするところがあります。浄土真宗は逆説の宗教といえるかもしれません。
努力すれば報われる、善人だったら救われる、いいことをすればいいことがあるという法則は、必ずしも真とはいえません。というか、努力しても報われない、こんなに頑張ったのに失敗した、何でだかわからないのに彼女に振られてしまった、コツコツ働いてきてためたお金をだまされて失った、順風満帆だったのに交通事故の貰い事故で半身不随になった。こんな不条理な世の中ではないでしょうか。それが人生だともいえましょう。
貝原益軒(大和俗訓、中公文庫)はこういっています。天命に常(じょう)と変(へん)とがある。善を行えば福があり、悪をすれば禍(わざわい)があるのが常である。善人に禍があって悪人に福があるのは変である。・・・・ただ人の法を行って、天命を待つのが良い。善を行って福が来るのは常の理であるけれども、もし禍があっても、これまた天命の変であるから悲しんではならない。およそ人は天命を知って、命にまかせ、悲しまない工夫をするがよい。
このように、善いことを行っても禍が起こったときの受け止め方について益軒は示しています。思ったようにならなくても乱れず、冷静に受け止めよということです。
そういえば、論語の中にもありますね。孔子らの集団が陳(ちん)の国にいたとき食糧がなくなった。(弟子の)子路(しろ)が腹を立ててやってきて、孔子に「修養を積んだ君子でも困窮することがあるのですか」と食って掛かった。孔子は言った。「君子ももちろん困窮する、だが小人(しょうじん)は困窮するとでたらめになるよ」子の曰わく、君子固(もと)より窮す。小人窮すれば斯(ここ)に濫(みだ)る。(衛霊公第十五)
逆説からちょっと話題がそれてしまい、何か困難になったときに、どう考えるかということになってしまいましたが、妙好人(みょうこうにん)は、特に不幸な出来事を肯定的にとることに長けています。そんなエピソードが多数あります。庄松(しょうま、寛政11年(1799年) - 明治4年(1871年)3月4日)は、讃岐の国(香川県)東かがわ市土居(現)に、農家の谷口清七のせがれとして生まれた。73歳で同地で死亡。わずかな田畑で農業を営みましたが、貧しかったため、雇われて農業をしたり、草履作り、子守、浄土真宗の勝覚寺で働きました。生涯独身。教養も低く、銭十銭も数えられないほどでした。勝覚寺の僧である周天という方に指導を受けたとされます。下の「庄松ありのままの記」は、大正12年に初版が発刊されています。
庄松が京都の興正寺御門主の御前に出るのに、粗末な袋を持って出ようとすると、役人たちが、「その袋はそこに置いて出られよ」と言いました。庄松は、「この袋は置いていけるが、胸の内のクソ袋を提げながら御前に出るのが恐れ多い」。胸中に充満した悪行の自覚があるということらしいです。「妙好人の言葉(白川晴顕)」より。
勝覚寺の住職は庄松をたいへんかわいがっていたそうですが、役僧の一人が庄松をうらやんで困らせようと思いました。それで、大無量寿経(だいむりょうじゅきょう)を持ち出し、ここの文を読んでみろと言うわけです。大無量寿経は、親鸞が教行信証の中で、「大無量寿経 真実の経 浄土真宗」と書いているほど浄土真宗にとっては大切な経です。法蔵菩薩は、その第十八願の中で、衆生が救われないなら、自分は悟れないとしています。法蔵菩薩はその後、悟り、阿弥陀如来となったわけですが、それが、浄土真宗の他力往生の根拠となっています。
さて、庄松は、意地悪な質問をされてどう答えたのかですが、「庄松よ、そのまま助けるぞ、助けるぞと書いてある」と言ったとのことです。2021年1月11日 つづく
さて、妙好人の一人である因幡の源左(天保13年4月18日~昭和5年2月20日)も逆境を肯定的に受け止めることに優れていました。昭和35年に出版された柳宗悦の書ですが、彼は現地に赴き、源左と親交のあった方々から直接に話を聞いています。師の鈴木大拙が妙好人に注目し、柳はそれを引き継いで彼の仕事の一つとし、源左の言動を深く探ったのです。たいへん貴重な記録です。(現代文にしてあります)
源左は母親から芋を掘ってきてくれと頼まれた。畑に行ってみると誰かが来て掘っている。源左はそのまま家に帰り、母親にどうしたと聞かれると、「ああ、今日は家(うち)の順番じゃないんだ」。
若い男が、「おっさん、あんたは極楽行だけど、わしや地獄行だよ」。源左、「地獄行ならちょうどいいんだ。極楽行なら、阿弥陀さんはすることがないからのう。地獄行だと皆助けると親様がおっしゃっているから」。
ご本山の布教使が源左に悔やみをいわれた。「長男の竹蔵さんが亡くなられて、お淋しいでしょう」。源左は、「ありがとうございます。竹は、早くお浄土に行かさせてもらいましていいことをしました。南無阿弥陀仏・・・」。「竹はこの世の分を済まして行かせてもらいました。自分はとろいので、一番後から行かせてもらいます」。
源左が夕立にあってびしょぬれで帰ってきた。願正寺の和上さんが、「爺さん、よう濡れたのう」というと、源左、「ありがとうございます。鼻が下に向いているのでありがたい」。(2021年1月12日)