宮沢賢治の万人の幸福と親鸞の唯一人の幸福

賢治の場合

 宮沢賢治は、1926年(大正15年)に農民の生活向上を目指して農業指導を実践するために羅須地人協会を設立。そこの授業のために書かれたのが「農民芸術概論綱要」です。無料肥料指導などの活動を行いますが、1933年(昭和8年)9月21日、37歳の若さでこの世を去りました。

序論 …… われらはいっしょに これから何を論ずるか…… おれたちはみな農民である   ずゐぶん忙がしく仕事もつらい 
もっと 明るく 生き生きと生活をする道を見付けたいわれらの古い師父たちの中にはさういふ人も応々あった
近代科学の実証と求道者たちの実験とわれらの直観の一致に於て論じたい

世界が ぜんたい 幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない

自我の意識は 個人から集団 社会 宇宙と次第に進化する
この方向は古い聖者の踏み また 教へた道ではないか 新たな時代 は世界が一の意識になり生物となる方向にある
正しく強く生きるとは銀河系を自らの中に意識してこれに応じて行くことである われらは世界のまことの幸福を索ねよう   求道すでに道である

このように、賢治は自分以外の誰かが不幸のままだと自分も幸福になれないといっています。世の中に今もある貧困や飢餓、戦争による死、家族との別れ、震災による喪失、病気、虐待、・・・。これらは、いつの時代にもなくなりません。ニュースを聞くたびに、ひどく嫌な気持ちになり、聞きたくないということもあります。つまり、普通の人にとって、世の中に不幸な人がいる場合には、どうしても自分だけ幸福だとは思えないのではないでしょうか?

 だから、賢治のいうことは普通に正しく思えます。ただし、万人が幸福だということは上記の通りありえないので、賢治は永遠に幸せになれないということになります。皮肉にも他人が不幸でも全然大丈夫だという人はかえって幸福になれるのかもしれません。ただ、他人と言っても、配偶者、親や子から、友人、仕事仲間、上司や部下、日本人、外国人、まったくの他人といろいろでしょう。賢治の場合は、もっとも遠くの人の不幸も影響してしまうのでしょう。自分のことのように思えるのでしょう。

 

親鸞の場合

 一方、浄土真宗の開祖、親鸞は、唯円の書いた歎異抄の中で、こう語っています。晩年の親鸞聖人が常常よく語っていた言葉らしいです。

「阿弥陀如来が五劫という長い時間をかけて思案を尽くして建てられたお誓いをよくよく考えてみると、

つくづくそれはこのわたし(親鸞)ただ一人に向けての救いの御心であった。

思えば救いようのない多くの罪を背負ったこの罪業深い身を生きるほかないこのわたしを何としても助けようと決意していただいたことは、なんともったいなく、有難いことであろうか」

 親鸞は、自分だけに対して、阿弥陀如来が修行をしてくださったと捉えています。相対的な愛ではなくて、絶対的な愛を求めたのです。

どう考えるか

 賢治の普遍的な幸福、親鸞の唯一人の幸福どちらが正しいともいえません。親鸞の場合、もし、阿弥陀如来が親鸞だけでなく、いろいろな人の中で親鸞も少し大切にされたというのでは、親鸞は満たされなかったでしょう。たとえば、神がAさんに恵んで金メダルをとらせた。Bさんには少し恵んで銀メダルを与えた。この場合、銀メダルの人は、ねたみ、嫉妬の心を持つでしょう。喜びよりも実際悔しさの方が強いでしょう。

 これと同じように、ねたみも嫉妬もなく、幸せを感じられるのは、自分が一番愛されたとか、自分だけのために、阿弥陀様や神様が与えてくださったという認識がどうしても必要なのではないでしょうか。特に欲が深く、志が高く、努力する人はそうでしょう。

だから、唯一性、自分だけ、あるいは、自分と神だけの閉ざされた関係性が必要なのです。信仰と言ってもいい。大勢の中の自分でなく、自分と神の単一の関係。親鸞の兄弟子の聖覚の書いた唯信鈔にも近い考えがあるようです。

人間の幸せは、自分だけが一番愛された、恵まれたという感覚と、周りのみんなが平等に愛された、恵まれたという感覚、その両方が必要であり、そのため、大きな矛盾を生じてしまいます。これをどう解決すればいいのでしょうか。矛盾のある所には、たいてい、大切なことが隠れていますので今後の考察が非常に楽しみです。

2024年2月