精神医学の父 呉秀三の人となりについて
日本精神医学の父、呉秀三については以前ブログで紹介させていただきましたが、今回「呉秀三小傳」(昭和8年 呉博士伝記編纂会)を都立図書館で読んでみましたので、呉秀三が周囲からどのような人物に映っていたのか報告します。昭和7年3月26日に呉秀三が没して1年後、後継者の三宅鑛一らが小伝を編纂し諸家に贈呈したそうです。
呉と同じ広島県出身の富士川游(ふじかわゆう、医学者、呉とともに医学史を研究した)は、呉が大学を卒業し大学院に入って半年足らずで、精神医学の教科書を著述するなど努力は尋常でなかったと述べています。呉の論文は外国の雑誌にも掲載され、ハンブルク大学から名誉金牌が授与されたとあるとし、呉が国際的な精神科医師、研究者であったことを語っています。また、呉が病者の待遇を改善し、鎖、拘束を撤廃し、患者に暴力を振るう職員がいれば直ちに解雇したと述べています。
また、医学の歴史研究に取り組み、華岡青洲(麻酔を研究した)やシーボルトの伝記を書いています。少なくとも後者は現在でも東洋文庫で手に入るようです。華岡青洲とシーボルト、そして、呉に共通すると思われるのが、目的を達しようとするときの強い継続的な意志の強さと、哀れなものをほっておけないという優しさにあるのではないでしょうか。それらの点で呉は2人に共感したのです。呉が成功したのは先人を尊重し学んだということもあるのではないでしょうか。シーボルトは、日本の植物学を勉強しましたが、すでに貝原益軒が行っており(大和本草)、それもあって、シーボルトは貝原益軒をその精緻さや計画性、哲学的な崇高さから尊敬したのではないかと私は思います。
呉は行動は慎重で、あわてて急ぐということがなく、人の意見を聞き、人と争わず、誠意にあふれていました。40年以上付き合いましたが、激しく怒るということがなかったと富士川は言います。正三位勲二等の栄冠を得ても、横柄な態度は、その臭いすらなかったといいます。ガンジーは、「獄中からの手紙」の中で、「わたしたちが自分が何ほどかのものであると考えるとき、そこにはすでに利己心が頭をもたげる」としています。
呉は口数が少なく沈黙寡言の人だったと富士川はいいます。話はあまりうまくなかったそうで、会話の中で、真意がどこにあるのかわからず、人が難しいと呉が感じたときには例を出して話すのですが、その例がさらに分からないというのです。とても親切なのですが、それを言葉に表さないために、一見冷淡にも見えたそうです。郷土愛が強く、県友会のために尽力したとのことです。この性質はとても興味深いものですね。富士川も正直すぎておかしいです。
友人の松井茂(広島出身、警察官僚)氏は、呉は文学の才にあふれ、漢文にも長けていたとしています。風貌は、老書生風で、到底外見上からは帝国大学の名誉教授には見えなかったといいます。淡白な性質の呉は松井の説をよく容れてくれたといいます。また、歴史の深い関心を持ち、特にシーボルトの研究は優れたものであったとしています。
学生時代は、気骨を露出していたが、その後は、一見すこぶる不得要領的であったという。温厚の君子にして自然に人を心服させたが、その笑い方のごときも精神病者に日ごろ接する時に体得したものではないかといいます。
広島出身の先輩の教授である田代義徳(たしろよしのり、栃木出身の外科医、東京帝大教授)は、初めて出会った17、8歳のころ、顔色が青かった、あまり風采の上がらない書生だがよく勉強には来ていたといいます。呉は言葉の少ない方であったが、一度発言するとその主張は強かったといいます。しかし、その主張される事柄を説明するのは上手ではなく、君の説は間違っていると言ってもなかなか承知せず、自分の説に忠実であったといいます。また、歴史の事実については徹底的に調べ研究は周密であったといっています。
友人の秋山雅之介(広島出身の官僚、法政大学学長)は、呉は筆の人で口無精でありましたといいます。また、呉は議論したことはないが、精神の強固で意志の強い人でどちらかというと頑固であって、これと思い込んだことはどうでもやり遂げるという性質の人でしたと述べています。
後継者であった三宅鑛一(みやけこういち)は、呉は漢学の素養にはなはだ深くあり、精神医学用語の制定においても効果を上げたといいます。回診の状況、病床日記の付け方、金銭の出納まで改革された。病者に対する同情が厚くなるように教えられた。意志が強く、初志貫徹し、この点は、凡庸人のとうていできることではないとしています。当時、心神喪失者の行為について、精神病者とての行為でもぜんぜんわけのわからない行為ではないことがあり、ある行為には責任を負わし他の病的な行為には無責任とすべしという議論があり、一方、同一の人の行為中に甲乙二種のあるべき理由がないという意見もあったといいます。呉は、後者の人格論を強く主唱して、現行法のごとき、心神喪失者云々という風に決定したといいます。私もそれが正しいと思います。精神病症状がはっきりと認められる精神病者の場合、一見一時的に正気な時に事件を起こしたのだから責任があるとか、その時は計画的にみえたから責任があるというのは多くの場合おかしいように思います。
また、呉は、常に校正を手にしており、それが唯一のお楽しみやお慰みであるように三宅には思え、呉に対する追憶の最も大なるものは実に先生のこの原稿校正のお姿であるといいます。三宅はすごく重要なことによく気が付いたなあと思います。もし、現代のワープロで呉が校正をしていたら、もっと校正が好きになったでしょう。原稿用紙では、校正するのにも汚くなり限界がありますが、ワープロなら無敵で美しくできるからです。こうして、ブログを書いていても校正はどこか楽しいものと私も思います。最初に文献とか調べて作文するのには苦労します。物になるのかもわかりません。しかし、校正は一応のめどが立ったものを完成に近づけていくものであり、気楽でもあり、完成度が高まる喜びもあります。このように感じている人も多いのではありませんか。
齋藤茂吉(医師、歌人)の記載は精神科用語の面も含めてドイツ語も紹介し詳細です。一つの論文のようで、完成度が高い文章です。彼が短歌のほかにドイツ語にも優れていたことがわかります。当院(浦和神経サナトリウム)の先代の阿部完市も俳句とドイツ語(記載も会話も)に長けていましたが、それは、言語の領域に優れた才能があったということであり、常人のまねできることではありません。茂吉と一緒です。
さて、私は呉がピネル(フランスの精神科医、呉の1世紀前に患の鎖を解き放ったとされる)をどう述べているのかに関心がありました。というのは、呉はどうみてもピネルを意識していたはずだからです。齋藤は、東京府巣鴨病院の粗末な建築の講堂に石版画のピネルがかかっていたといいます。呉がかかげたのでしょう。呉が、東洋医学を論じ、本邦の前賢を伝え、シーボルト伝を書いたのは、趣味が一致したのでないかといい、常に呉の態度に「道」をみたといいます。また、精神病患者に対する態度は、いかにも自然で、無理がなく、むしろ楽しんでいるように思われるほどであったとしています。そして、貝原益軒の「君子の楽はまよひなくして心をやしなふ」というのがあるといいます。呉の態度は、いつも患者と同化し、そこに少しもまよひのかげがなかったごとくだったといいます。また、患者はたばこを吸えなかったのですが、呉は職員も吸ってはいけない考えました。齋藤は隠れたばこをして呉に見つかったとあります。
森田療法で有名な森田正馬(もりたまさたけ)も述べているのは、呉が細かい事にも注意を払っていたことです。「聞く」はうわさにきくということで、「聴く」は耳で聞くことなど、文字、文章も精密に直されたといいます。几帳面で、病室を回るときも必ず戸を閉めるとか、廊下に落ちている反古紙を拾わせるということもありました。そのほか、今でも感謝していることとして「今日のことは今日せよ」、「必要なことは直ちに手を下せ」などであるといいます。
しかし、森田は面白いことを言っています。先生の言葉の心持になれないことがどうしてもあるといいます。それは、真宗の教えにも似ているが、呉は、「患者があってこそ医者も看護人もある。患者のおかげで我々も生活するのである。患者はお客である。患者を大事にしなければならぬ」と言っていたことです。しかし、森田は「私は今にも医者は患者を救うものであり、患者は医者の力に信頼し服従し感謝しなければならぬという気持ちがどうしてもとれない」といいます。これは実に興味深く面白い話だと思います。森田の思想通り、「あるがまま」に語っているところも実に面白いと感じます。森田療法は、精神交互作用などの理論を患者に知らしめ、絶対臥辱などプログラムをこなさせ、日記をみて指導するという医師の権威を必要とした療法であるともいえます。それにしても、そういう呉の根本的な思想がどこから来たのか、誰の影響を受けたのかまだわかりません。
これらの率直な報告から呉秀三の人格像がわかります。呉は、寡黙な人で、口よりも実行を好み、書くことに関しては論文、教科書、医学史、シーボルトなどの伝記など多方面に優れた才能を発揮しました。一見すると、帝大の教授にはみえず、威張るところが少しもなく、怒りを表すことはほとんどない人で、ただ、一度やろうと思ったことには長期間粘り強く取り組んで達成することができたようです。それは彼の情緒的な性質と結びつき、人の不幸を敏感に感じ取り、放置しておけないところがあったと思います。
一方、細部までこだわるところがあり、それは、論文にも、精神科用語にも、日常の生活習慣にも表れていたようで、物事(作品)を精緻に高い水準で完成させました。患者に対しては、人間として尊重し、平等に扱ったものと思います。論理的なだけでなく、直観的に思考できるためかもしれませんが、言っていることが周囲の人が理解できないということもあったようです。良い意味での論理の飛躍など、普通でない思考様式があったのかもしれませんし、思考能力に対して口での表現が追い付かなかったのかもしれません。呉の医学に関する道徳観念は、患者さんへの態度も救治会の創設などの行為も非常に愛他的なものでしたが、そのような思想体系や道徳観念がどこから来たのか、この小伝だけではわかりませんでした。
1978年(昭和53年)7月1日(土)朝日新聞の夕刊に「ホコリかぶる教授の胸像」という題の記事が掲載されました。その中で、東大精神科医師連合(精医連)が占拠している東大精神科病棟(赤レンガ)の2階、無人の教授室の前に古ぼけたアジビラを台座にぺったり貼ったままの呉秀三の銅像がホコリをかぶって立っていたということが報道されています。
その後、精医連に入った精神科医に聞いてみると、それから10年以上たった時にもそこに銅像があり、医者たちは誰の銅像だかわからず、先輩医師がじゃまだからと言ってよいしょと持ち上げて動かしたのを覚えているといいます。
「コノ國にウマレタル不幸」呉秀三
同時期の精神科医
ジグムント・フロイト 1856-1939
オイゲン・ブロイラー 1857-1939
呉秀三 1865-1932