道元の言葉 正法眼蔵随聞記 その3
さあ、続けて参りましょう。正法眼蔵随聞記は、世界的にも稀有な人生指南書です。最高の精神医学的洞察があります。何かを極めていくのは難しい、仏道でもそうです。戒律を守ることは大切ですが、こればかりにとらわれてはいけないと道元は言います。たとえば、道元の頃の僧には正午前に一食という戒律がありますが、そればかりにとらわれてはいけないといいます。
かといって、破戒、勝手気ままでも困る。らくだが針の穴を通るくらいむずかしそうです。真実の道を得る解決策は、ひたすら座禅することだと道元はいいます。
出家者として守るのは、自分に対する執着を捨て、指導者の教えにしたがうことであると道元はします。しかし、多くの人間は、不遜にも師のこのようなところは間違っているのではないかなどと思ってしまう。自分を捨てられないのです。親鸞が自らの考えを捨てて法然に帰依したようにはほとんどできないのです。
そして、道元は自分を捨てる方法を説きます。それにはどうすればよいか? 無常を観ずることだと言います。何もかもが移り変わっていき、一定の物はない。
世間の人はたいてい、人から立派だと言われよう、思われようと思っている。その心があるから、立派になることができないのである。自分に対する執着を捨て、指導者の言葉に従っていけば、進んでいくのである。同様の言葉が繰り返されます。
人から立派だと思われようとして行動する。それはある意味、よいことであり、そう思う人は、人に迷惑をかけるなどの悪いこともしないわけです。しかし、真実はそうではない。人から立派だと思われて何をしたいのか? どうせ人の考えなど無常であるし、正しい尺度ではない。
指導者との関係において、これこれのことは捨てかねると言って執着すると、ますます下落するという。そして、禅僧がよくなる第一の秘訣は座禅すべきことであり、生まれつき鋭いのも鈍いのも、賢いのも愚かなのも座禅をすれば立派になるのだという。大切なことは平等に与えられているいます。なぜかそのように思っています。つまり、寿命とか、経済力とか、才能とかは、平等ではない、ですからあまり本質的なものではない。社会的地位とか、仕事ができるとかもです。平等に与えられていることが大切なことなのであると思っています。座禅は多くの人が可能ですし、念仏はもっと簡単かもしれません。平等に与えられているかもしれません。
汚い言葉で僧をしかり責め、また過失を言い立ててそしってはならない。どんなに悪いといっても、四人以上集まって仏道を行ずるならば、僧団を形作っているのであって国のたいせつな宝である。どんな馬鹿な医者で冷酷非情でも医者は医者で国の宝なのでしょうか? 脱線してしまいますが、精神科では医者がどこか怒りのようなものを内在させていると、患者さんの中の怒りを顕在化させます。もちろん、看護師もです。まるで、鏡のように。
これも現代に生かせるでしょう。汚い言葉で部下をしかり責めたり、過失があったことを言い立ててはいけない。それなりに善い事もやっている。一長一短ではなく、一長三短くらいで普通と考えよう。自分もそんなものなのだから。
言葉は続きます。しかるべき立場にない人が、人の短所を言い、他人の欠点をそしるのは間違っている。(★1)
よくよく気を付けるべきである。間違いを見て慈悲をもって教化しようと思ったら、相手の人が腹を立てないように手段をめぐらして、ほかの事をいうようにして、教え導くべきである。
道元は★1に関して具体例を出しています。ある日、はれの饗宴があって、源頼朝が内大臣の身近に出ていた。その時、一人の狼藉者(ろうぜきもの)があった。その時、大納言が「あの者を取り押さえよ」と頼朝に命じた。頼朝は、「六波羅にお命じください。六波羅は平家の総指揮者であります」と言った。大納言は、「手近にお前という武士がいるのだから」と言われた。頼朝は、「私は武士でも、平家の武士を取りしまる立場の者ではございません」と言われた。この頼朝の言葉は立派なものである。この心がけで、後には征夷大将軍として天下を治めたのである。しかるべき立場の人でないのに、人をしかりつけてはならない。このように道元はいいます。
病院などの施設や会社などでも同じでしょう。他の部門、他の職種の人に指図するわけにはいきません。しかるべき方法をとらないといけません。
七の章にいきましょう。道元は教えます。自分は道理にかなったことを言っているのに、相手が間違ったことを言っていると思っても理屈で攻めて相手を言い負かすのはよくない。また、逆に、自分の方が道理にあっていると思っているとき、「私が間違っているのでしょう」といって敗けて引き下がるのも良くない。では、どうしろと道元は言うのか?
相手もへこませず、自分の間違いにもせず、何事もなく、そのままにしておけばいいのである。相手の議論も聞こえないようにして、気にかけないと相手も同様に忘れて、怒りもしないのである。何より大切な心がけである。
それでもうまくいかないこともあるでしょう。でも、だいたいうまくいけばいいのではないでしょうか。道元も人間関係で悩んだ時もあるのでしょうか。どうやって学んだんでしょう。道元は座禅していただけなのに、他の事はむしろやめた方がよいしていたのに、このような知恵を身に着けています。千日回峰行で歩いてばかりいた酒井雄哉もおどろくべき洞察を得ています。いったいどういうことなんでしょうね。
死に至るのは速い。生死を明らめることが大切であり、そのためには仏道を修行するべきだという。文章を作ったり詩歌を詠んだりなどは結局役に立たない。…仏祖の言われた言葉であってもあれもこれもととりあげて学んではいけない。ただ一つのことを専一に行うことでさえ、簡単にできるものではない。まして、多くのことを同時にして、心やその働きを静かにしないのはいけないことである。
私はこうして余計な文章を書いているし、私の先代の阿部完市は、著名な俳人でしたが、・・・道元は余計なことはするなといっています。現代はマルチな才能を要求されたり、多種の事を同時に処理する能力がいいとされたり・・・。本当に大切なのはそういうことではないといいます。
九章は、智覚禅師の話です。彼は優秀な官吏で、経済力もあり賢者とされていた。その彼が、役所の金を盗んで貧しい人々に施した。斬首される際にも少しも悲しげでなかった。その理由を皇帝が尋ねると、「官吏をやめて、命を捨てて施しを行い、生きとし生けるものと仏縁を結び、次の世には修行僧に生まれ、ひたすら仏道を行じようと思うのです」。皇帝はこれを聞いて罪を許して出家させた。
そして、道元はこういいます。今の禅僧もこれほどの気持ちを一度おこすべきである。命を軽くし、衆生を憐れむ心を深く持って、自分の身を、仏の定められたとおりにしていこうとするべきである。
道元は戒を守ることを重要と考えます。良寛もそうです。しかし、智覚は戒を破ります。同様にガンジーも何回も法を破って監獄に入れられました。大切なもののために戒を破ること、法を破ること、そして罰を受けること、これほど魅力的なことはないとも考えられます。イエスもソクラテスも不合理な罰を受けて殺されました。ここで問題なのは智覚は生かされてしまった。それをどう考えるかです。