物事はなぜ思い通りに行かないのか
人の幸福と不幸について考え、幸福を推進したいと思うのは哲学者である。が、精神科医もときどき考える。
幸福と不幸について考える場合、これらのもっとも大きな特徴は何か。それは、これらは主観的な問題だということである。そして、人は自分が幸福になることを望むし、他人が幸福になることを望む。健全であればそれが普通であろう。「他人」の範囲は人によって異なる。家族、友人、より多くの一般人、見知らぬ人、それから敵。今まで書いてきた偉人ほど、範囲は広がるらしい。
つまり、幸福が主観的なものであることから、不幸な人というのは、自分で自分のことを不幸だと思っている人のことだ。不幸の定義はいろいろあるかもしれないが、「物事や計画が思い通りにいかないと悩んでいること」というのも一つの定義として挙げられるだろう。
だが、計画がうまく進まないことの方が普通だ。100%成功していたら、それは計画や目標が間違っているかもしれない。自分の力を十分発揮していない。挑戦するスピリットが足りない。ユニクロの柳井社長だって「一勝九敗」だそうだ。
プロ野球が面白いのは、成功率が適度だからだ。3割ヒットを打てればいい方だ。盗塁だって適度な成功率だ。なぜこうなっているかだが、ベース間の距離とか、球の反発係数だとか、バットの材質だとかが黄金の比率で設定されているからだ。これらは、独立しておらず互いにゲームを面白くする微妙な関係を保っている。それが、100年変わらないとしたら、実に不思議なことだ。設計者は驚くべき能力だ。球場の大きさや形が違うのも趣をそえている。
これはほかのスポーツでもそうだ。バスケットボールのゴールの位置を20cm高くしたらどうか。ダンクシュートができる人は、それこそ神様になれる。つまり、ルール、規定によって、ゲームは大きく変わってしまうということだ。
サッカーのPKの距離は成功率からみて短すぎるように思う。成功するのが普通で失敗する方が希少だ。ボールセットの位置を1m下げるという検討はなされたことがあるのだろうか。ゴールを狭くしたら、今度は点が入らなくなってつまらなくなるだろう。繰り返すが、いろいろな要素のバランスでちょうどよいゲームが成立する。ここで、何かを変えてしまったら記録が比較できなくなるからそう簡単にはできない。
話が逸れてしまったが、人は思い通りにしたいと計画を立てるが、「またも、計画通りに進まなかった」と嘆くことも多い。こうならないためには、どうしたらよいか?
適度な目標があり、努力が報われることが人が物事に取り組む意欲を掻き立てる。成功率が0%でもいけないし、100%でもいけない。で、失敗した時にも必要な条件がある。なぜ、失敗したかわかること、こうすれば次は失敗しないだろうと信じられるからである。少なくとも可能性を感じられる。あらゆる可能性を感じられなくなったら、現実的にやめるべきか、あるいは、うつ病であるかだ。逆に可能性が現実から飛躍して無限に考えられるとしたら、躁病に注意しなければならない。ただ、躁ではないかと指摘すると、否定されるので意味はないかもしれない。もっと指摘すると怒られる。
話を何度でも元に戻そう。物事がうまくいかないための条件は、望みがあるから、理想があるから、欲求があるからである。しかも、その望みが現実から乖離するほど、物事がうまくいかない確率は上がる。
一方、昔、ボーイズビーアンビシャスと理想を高く持つことがすすめられた。銅像が作られ、伝説になるほど、そんなにすごいことなのか? 本当はどういうことを意味しているのだろうか。いろいろな解釈があるらしい。クラーク博士は、1年に満たない短い間しか日本にいなかった。しかし、彼の野心のおかげで北海道大学の開学は、伝説的なルーツを持つことになった。
アメリカに戻ってからの後半生は野心、挑戦と失敗、失意の日々だったようにみえる。彼は、生涯、アンビシャスであることを実践したことは確かなようだ。そうあるべきだという信念を貫いたのかもしれない。
目標とか理想とか野心とかは、現実的な能力や準備との関係を抜きにしては語れない。実力を無視した挑戦は失敗に終わる。しかし、自分では自分の実力が分からないということも多い。自分は他人の実力は分からないということも多い。才能のない人は才能のある人の実力を分からないということも多い。買いかぶるということばも侮るとか、見損なうという言葉もある。過大評価も過小評価もある。
目標とか理想は持った方が良いのか? 「思いは実現する」という考え方がある。「思考は現実化する」のナポレオン・ヒルは生涯に6回ほど結婚したらしい。成功と言えば成功と言えるかもしれないし、5回も失敗したと言えるかもしれない。結婚に希望か幻想を持ち続けることができたことは確かだ。本はすごく売れたのに、印税はすべて元妻に取られたらしい。彼の人生において思考は現実化したのだろうか? 彼は挑戦だけに満足を得ていたのだろうか。野心の結果、見返りについては何も期待していなかったのか?
「求めよ、さらば与えられん」(マタイ7)と聖書には書かれている。
道元もこう言っている。「このこころ、あながちに切なるもの遂げずということなきなり」(正法眼蔵随聞記3-11)。
しかし、仏教は本来、欲望が不幸の原因であり、欲望を捨てることを推奨してきたはずだ。いったいどういうことだろうか。
道元は解説している。たいせつな宝を盗もうと思ったり、手ごわい敵を討とうと思ったり、高貴な美人をわがものにしようと思う気持ちのある人は、ねても覚めても、事にふれ、時にしたがい、いろいろ事情はかわっても、すきをうかがい、心にかける。この気持ちが度はずれて痛切な者は、思いを遂げないということはない。
これと同様に、道を求める志が痛切になってくれば、あるいは、ひたすら座禅をしているとき、あるいは公案に向かっているとき、もしくは、指導者の前に出たとき、本気になってするとき、いかに高くても射当てることができるであろうし、いかに深くても釣り上げることができるであろう。これくらいの心をおこさないで、仏道という一瞬に、生死の輪廻を断ち切る大事を、どうして成就することができよう。
上記のキリスト教の言葉も道元の言葉も共に宗教的な成就についての言葉のようだ。信仰の成就だ。悟りの成就だ。だからか、妙に一致している。
松下幸之助や稲盛和夫のような企業人の伝記のなかにも、寝ても覚めても考えている、そのような強い情熱や執念のようなものが大切だということが書かれている。だが、それはどこから生まれてくるのか? 稲盛によれば、情熱は生まれ持ったもののようで、人によって情熱の持ち方にクラス別があるように書いている。
松下や稲盛のような偉人でなく、普通の人間ではどうなのか。問題は、能力や状況に応じた適正な目標を持つにはどうしたらよいかだ。逆に言うと、どうして人は不適切な目標や理想を持つのかである。また、どうしたら自分の才能というか、進むべき道と出会えるかだ。
堀江健一と風船おじさんはどう違うのか? 堀江健一は、他の人がどういようと自分にはできるという確信があったのだろうし、技術もあった。経験知もあった。風船おじさんは、意欲だけはあったが、現実がまったく伴っていなかった。それまでの人生をどう歩んできたのか興味があったが、ウィキペディアで十分楽しめた。上村直己は、最後に冬のアラスカで亡くなった。これまた象徴的である。いいとか悪いとかではない。
いずれにせよ、自分の理想とか欲求などと自分がどう付き合うことは、幸福感と結びつく人生の大きな課題だろう。